かつまた

【かつまた】接続詞

使い分けの視点

かつまたは、冗長という礼装です。「かつ」も「また」も単独で累加を表せますが、二つ重ねることで、いま改めてひとつ積み上げます、という宣言の所作が生まれます。長い形に費やす手間そのものが敬意の支払いになるので、弔辞や式辞、演説の時間を支配する語として生き残りました。雑談に置けば即座に滑稽になりますから、この語を口癖にする人物を出せば、格式に寄りかかって生きてきた履歴が一語で背負えます。

同義語

同品詞の類義語

なおかつ文芸的
そのうえ
しかも
おまけにcolloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

それと同時に
あわせて

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

加えて
そればかりか文芸的
おまけに言うとcolloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

礼装エッセイ関連

例文: 老人の口上は長かったが、その冗長は礼装のように整っていた。

口癖エッセイ関連

例文: 「かつまた」が口癖のその人は、一言ごとに式辞の空気を連れてきた。

冗長という礼装——「かつまた」が式辞に生き残る理由

弔辞や式辞の類には、独特の時間が流れています。情報だけを取り出せばほとんど何も足していない言い回しが、改まった口上ではむしろ骨格になります。「かつまた」はその典型です。「かつ」も「また」も、単独で十分に累加を表せます。二つ重ねたところで、論理的に増えるものは何もない。それでもこの冗長な語が捨てられずに残っているのは、冗長さそのものが仕事をしているからです。

語用論には、情報として必要な量より多くを言えば、その過剰さ自体が別のメッセージを運ぶ、という考え方があります。会話の量にかかわる原則をめぐるグライスの議論がよく知られています。「かつまた」の過剰さが運ぶのは、付け加えるという行為そのものの重さです。単に次の項目へ進むのではなく、いま私は改めてひとつ積み上げます、と宣言してから積むのです。追加を儀式化する語、と言ってもいいでしょう。文の中身ではなく、文を差し出す所作の側に効いています。

日本語では、形の長さと改まりの度合いがおおむね比例します。「読む」より「お読みになる」が、「今」より「ただ今」が改まって聞こえます。長い形を選ぶことは、それだけ手間を支払ったことの証しとして働くからだと考えられます。「かつまた」も同じ経済の中にいます。「また」の倍の長さを費やすこと自体が、聞き手への、そして場への敬意の支払いになっています。関係の帳簿では、意味の重複が二重払いどころか正装として認められます。

話し言葉の側から見ると、この語にはもうひとつ実務的な役目があります。長い接続語は、発言権を手放さないための道具になります。会話の順番の取り合いを扱う研究では、話し手が次の内容をまだ用意できていないとき、内容の薄い繋ぎを差し挟んで場を保持する現象が知られています。「かつまた」の四拍は、その保持のための余白として使えます——まだ続きます、割り込まないでください、という合図を、意味を増やさずに送れるわけです。だから式辞や弔辞、演説といった、原稿を手に間を支配する話芸の中でこの語は生き残りました。逆に論文や報告書では、読者が自分の速度で読み進める以上、時間を稼ぐ必要がありません。読み手が時間の主導権を握る文章から、この語がほとんど姿を消しているのは、そのためだと考えられます。

裏返せば、この語は場違いな所に置くと即座に滑稽になります。友人との雑談で「駅前のパン屋は安く、かつまた、うまい」と言えば、まず笑いが起きます。過剰な敬意は、受け取る相手のいない場所では道化の衣装になる——そしてこの性質は、人物造形の道具として使えます。この語を口癖にする人物は、一言で、格式に寄りかかって生きてきた履歴を背負います。演説口調の議員、旧家の当主、生真面目すぎる書生といったところでしょう。使いどころは狭く、しかし狭いからこそ、置かれた瞬間に場の空気を一変させます。地の文に置けば語り全体が式辞めき、台詞に置けば人物が像を結びます。冗長は、意味の世界では罪ですが、関係の世界では礼装である。この語を削るか残すかの判断は、その一文が情報を運んでいるのか、敬意を運んでいるのかの見極めと、そのまま重なっています。

文: hakadoru.ai 編集部

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