芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を初めて論理の目で見たとき、しばらく手が止まりました。静けさを言うために、音を持ち出している。しかも蝉の声は小さい音ではありません。命題として素直に読めば、これは自己矛盾に近い。それでもこの句は破綻していると誰も言わない。とすれば、静けさを「音がないこと」と読むほうが間違っているということになります。
否定のスコープを整理してみます。「物音一つしない」は、鳴りうるすべての対象について鳴っていないと述べる全称否定です。この読みなら蝉は明白な反例になる。しかしこの語が指しているのは、要素数がゼロの状態ではなく、要素数が極端に少ない状態のようです。そしてゼロと一の差は、九と十の差よりはるかに大きい。音源がひとつだけ残っているとき、残りの不在が輪郭を持ちます。何もなければ、何もないことすら知覚できない。静けさが音を必要とするのは、逆説ではなく、否定を成立させるための最低限の手続きだったのかもしれません。
程度を測れるかどうかも、判断の材料になります。もっと閑寂だ、いっそう閑寂になる、これ以上ないほど閑寂な。どれも言えます。段階を持つ述語だということです。全称否定なら段階は生じません。物音一つしない状態に、もっと、はない。ゼロは比較級を持たないからです。この語が比較を受け入れるという事実だけで、指しているのが不在ではなく希薄さのほうだと分かる。反実仮想を作ってみると、事情はもう少し細かく見えます。あのとき鐘が鳴らなければ、もっと閑寂だっただろう。この文が成り立つなら、鐘は静けさを壊してはいないことになります。壊していたなら、比較の土台そのものが消えてしまう。音は、静けさを測る目盛りの上に乗っている。
もうひとつ、前提のふるまいが気になります。「まだ閑寂を保っている」と言うとき、以前も静かだったことは主張ではなく前提として置かれています。前提は否定の下をくぐり抜ける性質があり、「保っていない」と言い換えても以前は静かだったという含みは残る。だからこの語を否定形で使うと、単に音が多いという報告にはならず、静かであるべき場所が静かでないという逸脱の報告になります。同じことを「うるさい」で言った場合には、そんな含みは生じません。語彙の中に、場所への期待が畳み込まれている。前提の頑固さは疑問形でも確かめられます。まだ閑寂を保っているのか、と問うたとき、以前は静かだったという部分は疑いの外に置かれたまま、現在の状態だけが争点になる。否定と疑問の両方をくぐって残るものが前提だという教科書どおりの見分け方が、この語では素直に通ります。
聞き手がいなければどうなるか、という問いも避けて通れません。無人の山中は閑寂か。音源の少なさという事実だけなら、誰もいなくても成り立ちます。ところがこの語を使った文は、そこに身を置いた者の報告として読まれる。誰も測っていない静けさをこの二字で述べることには、どこか抵抗があります。似た語を並べると差が出ます。無音、無響室、騒音レベル——これらは装置が測れる。この語は測れない。装置が拾えるのは音源の数であって、残りの不在が輪郭を持つという出来事のほうは、聞いている誰かの内側でしか起きないからです。
さらに厄介なのは、評価が語に埋め込まれている点です。「静かだが落ち着かない」は普通に言えます。「静かだが不快だ」も言える。ところがこの二字漢語に置き換えると、途端に座りが悪くなる——矛盾しているわけではないのに、聞き手が引っかかる。ここから逆算すると、この語は事態の記述と同時に美的な承認を行う述語だと考えられます。記述と評価が分離していない。自分の観察に異議を出しておくと、そういう語は珍しくありません。閑静も、清々しいも、程度の差はあれ評価を含みます。ただ差はあって、評価の向き先が違う。清々しいは話し手の感覚を述べますが、この語は場所の側に価値を帰属させる。場所が持っている性質として語られてしまうのです。
これが効いてくるのは、視点人物が場所を嫌っている場面です。寺の空気に耐えられずにいる人物の内側から語っているとき、地の文にこの語を置くと、語りが人物から一段浮き上がります。読者は誰の評価かを瞬時に判別できないまま、なんとなく作者の声を聞かされる。評価まで読者に渡したいなら、記述だけを担う述語へ落とすほうが確実です。音源をひとつ書いて、残りを書かない——それで足ります。