「目をつぶる」は、見ないことのほかに、見逃す・大目に見るという意味を持っています。細かい違反を目をつぶって通す、というときの用法です。同じ動作を指すはずの「目を閉じる」には、この意味がありません。閉じても見逃さない。ここが引っかかりの起点になります。生理的にはまったく同じ運動なのに、比喩の行き先だけが分かれた——瞼が下りるという一点では、区別のしようがないはずなのに。
語形のほうから見ていくと、この二語は出自の層が違います。「つぶる」には「つむる」という並存形があり、地域や世代で揺れます。並存が長く続いているのは、この語が話し言葉の側に根を張ってきた証拠でしょう。一方「閉じる」は、古語の「閉づ」が上二段に活用していたものが、二段活用の一段化という大きな流れのなかで現在の形になったと説明されます。この一段化は室町から近世にかけて広く進んだとされるもので、「閉づ」だけの事情ではありません。つまり片方は口語の内部で揺れ続け、片方は文法体系ごと運ばれてきた。
ここから意味の分岐を説明したくなります。「閉じる」は「閉じる」という語形を、店・幕・扉・生涯と共有しています。店を閉じる。幕を閉じる。これらは終結を指す。だから「目を閉じる」も終結の側へ引かれ、死の婉曲になった。永遠に目を閉じる、瞑目する。理屈は通っています。
しかし通りすぎている気もします。「目を閉じて考えてみてください」と言うとき、そこに終結はありません。数秒で開きます。「閉じる」が終結専用なら、この用法は出てこないはずです。だから終結性は「閉じる」の一義ではなく、共起する名詞との組み合わせで浮上する要素にすぎない。説明を一段弱めなければならない。
弱めたうえで残るものを探すと、二語の時間の幅が違うことに行き当たります。「つぶる」は瞬間的で意志的です。ぎゅっと力を入れる感じがあり、開くことが前提になっている。だから「一時的に見ない」から「見て見ぬふりをする」への橋が架かった。見逃しとは、目を開けたあとも咎めないことです。開くことが含まれていなければ、この比喩は成立しません——見逃しには、必ず後日がある。対する「閉じる」は状態的で、開くことを含意しません。閉じたままでいられる。だから死の側へも、静止して内へ向かう側へも伸びていける。動作の長さの違いが、比喩の行き先を決めていた、という筋になります。
表記の揺れも、この分岐を裏書きしているように見えます。「瞑る」は「つぶる」とも「つむる」とも読ませ、「瞑目」という漢語では黙祷や静思のほうへ寄る。同じ漢字が、和語として読まれるときと漢語として読まれるときで、担う時間幅を変えている。
書く側にとっての手がかりは、そこから引き出せます。人物に一瞬の逡巡をさせたいなら、開くことが約束されている語を選ぶ。祈りや諦めや、そのまま続く静けさを書くなら、開くことを約束しない語を選ぶ。閉じた目をいつ開けるかを、語形のほうがすでに半分決めている。