旧字体の「祕」を眺めていると、左側が示偏であることに気づきます。示は祭壇をかたどった字とされ、社、祝、祈、禍——神事にまつわる字がこの偏のもとに集まっています。とすればこの熟語は、二文字とも祭壇の前で組み立てられた語だったことになる。ところが現在の常用字体は禾偏の「秘」です。禾は稲を表します。祭壇が稲に置き換わっている。字形の似た偏が書写の過程で混同したという説明を読んだことがありますが、確実な経緯は分かりません。ただ、二つの字を並べて見比べているだけで受ける感じが変わるのはたしかで、示偏のほうには人が立っている気配があり、禾偏のほうには倉の奥に何かがしまわれている感じがある。同じ語の同じ位置にある字が、偏ひとつで隠す主体を変えてしまう。
上の一字にも、同じ偏が入っています。神は示と申を組み合わせた字で、右側の申は稲妻の形をかたどったものだという説が古くから唱えられてきました。のちに雨の冠を足した字が電となり、自然現象のほうはそちらへ分かれていったとされます。二文字とも、もとは祭壇の側に足場を持っていたわけです。ところが片方は偏を保ち、もう片方は字体の整理を経て偏を失いました。熟語としての左側の揃いは、いまはもう成り立っていません。来歴が揃っていない二字が一語を作っているという事実は、この語を扱うときに案外効いてきます。
和語の側を見ると、事情が違います。万葉集に「神さぶ」という動詞があり、年月を経て神々しくなる、という意味で使われます。ここで働いているのは時間です。古びることが神性を生む。一方の漢語の「秘」が担うのは空間で、何かの後ろに置くこと、覆いをかけることです。同じ領域を指しているように見えて、二つの語は違う軸で対象を扱っている。片方は距離を、片方は年数を数えている。訳語として二字を並べたとき、この違いは吸収されないまま残りました。
古形は複合語の中にだけ残る、という現象も重なっています。神無月、神楽、神奈備といった語には、かむ に由来するとされる形が入り込んでいて、単独で使われる名詞の音とは揃いません。さきほどの動詞も、その古い層に属する一語です。漢語の側にも訓が用意されていて、後半の字は ひめる とも ひそか とも読まれます。ひめる は他動詞で、隠す主体を必ず要求する。ひそか のほうは状態を述べるだけで、主体を問わない。同じ一字に、主体のいる読みといない読みが同居しているわけです。偏を書き換えた程度のことでは片づかない揺れが、読みの側にも残っています。
ここで引っかかります。隠すことと古びることは、本当に近い経験なのだろうか。隠されたものは見えず、古びたものはむしろよく見える。神社の柱は目の前にあり、手も届く。届くのに触れてはいけない、という別の規則がそこに追加されているだけで、視覚的には何も隠されていない。だとすると「秘」の字が担う遮蔽と、「さぶ」が担う経年は、やはり別のものだ。それでも両者が一つの語感に収まるのは、どちらの場合も、対象が見る側の手続きを要求するからだと思います。覆いを外すには資格が要り、古い柱に触れるには作法が要る。隠蔽と禁忌は、届かなさの理由が違うだけで、届かないという結果を共有している。由来の違う二つが同じ棚に収まってしまうのは、理由より結果のほうが先に目に入るからでしょう。
そう考えると、この熟語が日本語で使われるときの重心は、字面よりも「さぶ」の側に寄っているように見えます。霧に沈む山、参道の奥、明け方の湖。どれも見えています。見えているのに入れない。字は隠す側の字なのに、用法は見えている側に落ちている。近代の翻訳語として整えられる過程で西洋語の語感が混ざった可能性もありますが、そこは推測の域を出ません。確かなのは、字面が指示していることと実際の用法とが食い違っている、という一点だけです。
創作の現場に引き寄せるなら、この語を対象の属性のように扱うと空回りしやすい、ということになります。属性であれば「赤い湖」と同じ扱いができるはずですが、実際には書いた瞬間に読者の視界が白くなる。字の来歴からすると、これは対象そのものの性質ではなく、対象と人との位置関係につけられた名前です。だから距離のほうを書けば立ち上がる。水面に空が映っていない、と一行書くだけで、見えていて近づけない状態が読者の側に生まれます。祭壇の前に立たせるのであって、祭壇を説明するのではない。