液晶ディスプレイで動くものを見ると輪郭がぼやけます。原因の一部はパネルの応答速度ですが、それだけではありません。液晶は次の書き換えまで同じ画を出し続けるホールド型の表示で、一方で人の目は動く対象を追って滑らかに動く。目の動きと画面の静止が食い違い、網膜の上で像が塗り伸ばされます。つまり、ぼやけの一部は装置ではなく観測者の側で生成されている。工学の側はこれを厄介な誤差として扱いますが、書く側にとっては別の意味を持ちます。目が像を保持してしまうという性質は、装置以前から人間に備わっていた仕様なのです。
強い光を見たあと目を閉じると、しばらく形が残ります。明るかった部分が暗く、色は反対側の色に転じることが多い。光受容体の応答が瞬時には戻らないためで、消えるまでの時間は光の強さと持続時間に依存します。ここで注意したいのは、残るのが「見たもの全部」ではないことです。細かい模様は真っ先に落ち、輪郭と明暗の大きな塊だけが居座る。網膜に焼き付いた写真、という比喩がよく使われますが、写真とは逆の性質を持っています。写真は細部を等しく保存し、この現象は細部から捨てていく。
同じ落ち方は、細い回線で画像を開いたときにも観察できます。段階的に表示する方式で符号化された画像は、まず粗い明暗の塊として画面に現れ、そこへ細部が後から重なっていきます。届く順序が、粗いものから細かいものへと決められているからです。読み込みの途中で手を止めれば、輪郭と明暗だけが残った画が見られる。目を閉じた直後に残っているものと、見た目がよく似ています。どちらも同じ設計思想から出ているわけではありませんが、粗い成分が先に来て細かい成分が後から来るという順序を共有している点で、比べる価値はあります。順序が決まっているということは、途中で打ち切っても壊れないということでもある。
捨て方の設計、と言い換えると計算機の話に接続します。JPEG が画像を小さくするとき、輝度の情報は比較的丁寧に残し、色差の情報は解像度を落として間引きます。人間の視覚が明暗の細かい変化には敏感で、色の細かい変化には鈍いという性質を、あらかじめ利用した圧縮です。落としても気づかれない成分を先に落とす——非可逆圧縮の設計とは、要するに何を捨ててよいかの一覧表を持つことです。目に残る像も同じ方向に働いています。エッジと明暗を残し、色相と細部を落とす。偶然の一致ではなく、どちらも同じ視覚系の特性から導かれた結果だからです。捨てる順番をあらかじめ決めておくという仕事は、残すものを決める仕事と同じ一つの作業です。
捨てたあとに残ったものが何の役に立つかも、計算機の側に例があります。似た画像を照合するために、画像を極端に小さく縮め、粗い成分だけを取り出して短い指紋を作る手法が使われています。細部を全部落としても、同じ写真の縮小版どうしなら指紋は一致する。識別に必要な情報は、実は粗いところに集まっているという設計です。人物を見分ける仕事も、これに近いことをしています。顔の造作を思い出せなくても、歩き方と肩の傾きだけで遠くの一人を特定できる。捨てるという操作は、情報を失うだけでなく、照合の鍵を作る操作でもあるわけです。粗い像しか残らないことは、欠落であると同時に、照合の速さでもあります。
比喩を記憶へ延ばすときは、一段慎重になったほうがいい。記憶は圧縮ファイルのように、保存された時点の情報を目減りさせながら保つのではなく、思い出すたびに作り直されるという見方が有力です。復元のたびに内容が変わりうる符号化——工学の圧縮にそんなものはありません。それでも共通しているのは、残るものが最初から選別されているという点です。人物が数年前の一場面を思い出す。そこで思い出されるのは、輪郭の強い数個の要素であって、部屋の全体像ではない。
だから、この種の像を書く場面では情報量を落とすことが正確さになります。服の色、家具の配置、天候まで揃えて書くと、それは残像ではなく再現になり、語り手が嘘をついている印象が出る。逆に、逆光の中の肩の線と、床に落ちた影の角度だけを書けば、読者の側の視覚系が残りを補います。捨てる成分を決めるのは書き手ですが、補う作業を引き受けるのは読者です。どこまで捨てれば補わせられるか——その分岐点を各場面で決めることが、この語を扱うときの実質的な仕事になります。