「溶けるような甘さ」から三文字を取り除いて「溶ける甘さ」にすると、文の据わりが悪くなるだけでは済みません。主張の種類が変わります。後者は甘さが溶けると述べている。前者は述べていない。取り除いた三文字が担っていたのは命題の中身ではなく、その命題をどういう資格で差し出すかという表示でした。論理の側の用語を借りれば、内容ではなくモードのほうに属している。だからこの三文字は、真偽の対象になりません。
隣にもう一つ、紛らわしい形が立っています。溶けそうな、です。一文字減っただけに見えて、指している世界が違う。溶けそうなアイスは、放っておけば実際に溶けます。徴候が観察されていて、そこから現実の見込みが述べられている。ところが溶けるような甘さのほうは、その甘さが溶ける見込みを少しも含みません。片方は現実についての予測で、当たったか外れたかを後から確かめられる。もう片方は、起こらないと分かっていることをわざわざ引き合いに出す構えで、確かめる手続きがそもそも存在しない。検証できる文と、検証の対象にならない文が、ほとんど同じ姿で並んでいるわけです。書き分けを一文字分間違えると、比喩のつもりだった一行が予報として読まれます。
ここで面倒なのは、直喩を「AはBに似ている」という命題として読むと、ほとんど何も言っていないことになる点です。任意の二つのものは、何らかの観点でなら必ず似ている。だから比喩を似ているという主張として扱うかぎり、直喩は自明に真になり、隠喩のほうは文字通りには偽になる——この非対称を突いた議論は古くからあります。実際に伝わっているのは似ているという事実ではなく、どの観点で見るべきかという指示のほうです。指示は真でも偽でもない。比喩に向かって本当かと問うても噛み合わないのは、そのためです。
同じ形式が、まったく別の仕事もしています。子どもが喜ぶようなお菓子、と書いたとき、その菓子は実際に子どもを喜ばせます。属性を絞り込んでいるだけで、比喩ではない。ところが甘さのほうは実際に溶けたりしません。どちらの読みを取るべきかを、読者は形式から決められない仕組みになっています。決めているのは、その述語がその名詞に文字通り当てはまりうるかどうかという、言語の外側にある知識です。溶けるという述語は氷や蝋には当てはまり、甘さには当てはまらない。当てはまらないと判定された瞬間にだけ、比喩の読みが起動する。形式が渡しているのはこの観点で見よという指示までで、観点が現実に成立するかどうかの判断は、最初から読者の側に置かれています。
否定を通すと、この構造がはっきり見えます。溶けるような甘さではなかった、と書いたとき、否定されているものは何か。甘くなかったのか、甘かったがその形容が当たらないのか、それとも形容そのものを不適切として斥けているのか。日本語の否定は作用域を表面に出さないので、三つが同じ文字列のなかに同居したまま残ります。作中で比喩を否定形で置くと解釈が割れるのは、読者の読解力の問題ではありません。文法が作用域を明示しないからです。台詞であれば、どこを強めて読むかで狙いを示せます。地の文にはその手段がない。絞り込みたければ、否定の位置を動かすか、そんな形容が当たる甘さではなかった、というふうに語を足して範囲を書くほかありません。
さらに厄介なのは、前提の振る舞いです。この形容は、溶けるという出来事を読者が想起できることを前提として持ち込みます。そして前提は否定をくぐっても生き延びる。溶けるようではない、と書いても、溶けてゆく像は一度立ち上がってしまう。打ち消したはずのものが残るというこの性質は、実務上かなり重い。否定によって比喩を避けたつもりの一文が、結果としてその比喩を読者の頭に置いて去ることになるからです。使わないと決めたなら、否定形でも書かないほうがいい。
もう一つ、この形は反実の条件を圧縮しています。もし甘さというものが溶けうるとすれば、その溶け方に相当するような——という長い仮定を、三文字に畳んでいる。仮定を畳むというのは、その仮定を検証する義務を書き手が負わないという意味でもあります。責任の半分が読者側へ渡る。渡す分量を調整できる装置だと考えると、この形が濫用されやすい理由も見えてきます。何も確定させずに濃度だけを上げられるからです。決めるべきなのは渡すかどうかではなく、渡したあとに自分の側へ何を残すかのほうだ。