と、け、る、よ、う、に。六拍あります。日本語の副詞句としては中庸の長さで、後ろに三拍の述語を置けば合計九拍、一息で読み切れる範囲に収まる。この副詞句に「消えた」を続けた形が口のなかで座りよく感じられるのは、意味より先に長さの問題です。ここに八拍の述語を続ければ十四拍になり、一息では読み切れなくなる。同じ語を使っても、後続の長さしだいで手応えが変わるということです。
数える単位を決めておくと、この種の判断は安定します。原稿用紙の枚数は文字で数え、朗読の所要時間は拍にほぼ比例する。両者は一致しません。促音や撥音や長音は仮名一つで一拍を占め、逆に拗音は仮名二つで一拍にしかならない。瞬間という語は仮名で書けば五文字ですが、拍で数えれば四拍です。この副詞句は六文字六拍で、文字数と拍数が一致する素直な形をしています。だから黙読したときの長さと音読したときの長さがずれにくい。ずれない語は、推敲のときに判断を誤りにくいという実利があります。
配置を変えると、同じ六拍が別の働きをします。文頭に置いて読点を打つ場合と、述語の直前に据える場合では、係り先の広さが違う。前に出すほど文全体を覆う読みが立ち上がり、述語に寄せるほど動作そのものの様態に限定されます。日本語は述語が末尾に来るので、修飾句を前へ動かすことは修飾語と被修飾語の距離を伸ばすことと同義になる。距離が伸びれば読者は係り先を保留したまま読み進めることになり、その保留の分だけ速度が落ちます。落とすこと自体は悪くない。落とした先に何を置くかが設計です。
計量の面では、この種の様態副詞句に固有の癖があります。内容語を二つ増やしながら、命題の情報はほとんど増やさない。語彙密度を計算すると数値は上がるのに、要約したときに残る中身は変わらない、ということが起きます。だから比喩的な副詞句を足していくと、一文あたりの密度は上がり、話の進行速度は下がる。両方が同時に起きるので、書いている最中は手応えがあるのに、通しで読むと停滞して感じられる——増えたのは密度であって、進んだ距離ではないからです。
もう一つは分布の問題です。文の長さは、ばらついているほうが読みやすい。短い文が続いたあとの長い一文は目立ち、その逆も目立つ。様態副詞句は文を伸ばす最も手軽な手段なので、無意識に使い続けると、どの文もおおむね同じ長さに揃っていきます。分散が縮んだ文章は、内容にかかわらず平坦に読まれる。一話ぶんの原稿から「ように」を機械的に数えてみると、たいていの書き手は自分の見積もりより多く使っています。数える作業そのものが、いちばん安上がりな推敲になる。
削る判断は単純にできます。その六拍を落として文が壊れるなら残す。落として速くなるだけなら、少なくともその一箇所は落とす。文の長さは書き手が直接操作できる数少ない量で、その操作をいちばん受け付けるのがこの位置の修飾句だ。削除は消極的な作業に見えて、分布を意図して崩せる数少ない手段でもある。