「泣きながら笑った」という一文は、なぜ破綻せずに読めるのでしょうか。素直な答えは、涙と笑いは生理的に両立するから、というものです。実際そのとおりなのですが、この答えでは足りない気がします。というのも、同じ「ながら」を使った「知っていながら黙っていた」には、同時性とは別の何かが入り込んでいるからです。同一の接続形式が、片方では並行を、片方では譲歩を表す。この二つは連続しているのか、それとも別物なのか。しばらく考えても、きれいに割り切れません。
やがて、逆接は「ながら」そのものが持っているのではないらしい、と思うようになりました。前件と後件が両立しにくいとき、読者が衝突を埋めるために逆接を読み込む。「歩きながら食べる」に逆接は生じません。両立に何の抵抗もないからです。「知っていながら黙る」は、知っていれば言うだろうという期待に反する。だから譲歩が発生する。とすると「泣きながら笑う」はその中間にある——生理的には両立するが、情動としては衝突している。読者は弱い逆接を読み込みながら、同時に事実としての並行も受け取っている。一つの表現が、主節の中身しだいで論理的な色を変えるということです。
この形式には、もう一つ硬い制約があります。前件と後件の主語が同じでなければならない。彼が泣きながら彼女が謝った、という文は作れません。その一方で、そのあいだに、といった接続なら主語が別でも通るのに、この形式だけは二つの出来事を同一の身体へ縛りつける。衝突が起きるのは、そのためでもあります。別々の人間なら、泣いている者と笑っている者が同じ部屋にいるだけで、何の緊張も生まれない。同一制約が、生理の両立という条件を、心理の両立という問いへ押し上げている。形式が意味を作っているというより、形式が問いの立て方を決めていると言ったほうが近い。
前件に置ける動詞にも条件があります。時間の幅を持っていなければならない。歩く、泣く、笑う、考える。こうした動詞なら並行の読みが素直に出ます。ところが、着く、割れる、気づく、といった一瞬で終わる動詞を置くと、並行では読めなくなる。気づきながら黙っていた、は譲歩としてしか受け取れません。前件が瞬時に片づいてしまえば、後件と重ねる時間が残らないからです。逆接が生まれるのは両立しにくさだけが理由ではなく、重ねられない前件を無理に重ねようとしたときにも起きる。泣くという動詞が両方の読みを許すのは、それが長く続けられ、しかも情動として他の行為と衝突しうる、やや珍しい位置にいるためです。
ここで引っかかるのは否定です。「泣きながら帰らなかった」と書いたとき、何が否定されているのか。帰らなかったのか、それとも泣きながら帰るということをしなかったのか。日本語の否定は文末に一つ置かれるだけで、作用域が構造から一意には決まりません。英語なら語順や強勢である程度示せる範囲が、日本語では書き手の側の書き分けに委ねられる。「泣きはしたが帰らなかった」と「泣かずに帰った」は、同じ材料からまるで違う場面を作ります。曖昧なまま置けば、読者は多くの場合、主節だけを否定して読み流していく。量を表す語が混じると、曖昧さの幅はさらに広がります。誰も泣きながら帰らなかった、と書いたとき、一人も帰らなかったという読みと、帰った者はいたが泣いてはいなかったという読みが並び立つ。どちらへ落ちるかを決めているのは文の構造ではなく、その直前までに読者が受け取っていた場面の情報のほうです。
そう考えると、この副詞句の役割が少し見えてきます。「泣きながら謝った」で主張されているのは謝ったことであって、泣いていたことは主張ではなく、舞台として差し出されている。だから読者はそれを争点にしない。もちろん反証はあって、「泣きながら謝ったのか」と問い返せば、泣いた部分も疑いの対象になります。それでも通常の読みでは、涙は前提の側に沈む。争わせないまま画面へ置ける、ということです。
だとすれば、書くときに決めるべきなのは涙の描写ではなく、主節に何を置くかのほうです。「泣きながら謝った」と「泣きながら包丁を研いだ」では、同じ涙が別の物質になる。前者では涙が謝罪の誠実さを補強し、後者では涙と行為が噛み合わないまま並走して、読者に説明を要求します。この形式は涙そのものを描くための道具ではありません。涙を何と衝突させるかを選ぶための、器具のような働きをしています。