文法的には作れるのに、実際にはまず書かれない形があります。「涙を堪えなかった」がそれです。書かれるのは決まって「堪えられなかった」「堪えきれなかった」のほうで、否定は意志ではなく能力の側に寄る。堪えないという選択が、そもそも想定されていないからです。同じ他動詞でも「本を読まなかった」なら意志の否定として自然に読めます。読む読まないは選べるが、堪える堪えないは選べない。同じ活用の形が、動詞によってまったく違う読みしか許さない。この非対称は、語彙の性質から出ています。
ヲ格に取れる名詞を並べてみると、範囲がはっきり狭い。涙、笑い、あくび、痛み、眠気、怒り。どれも本人の内側で、意志と無関係に発生する出来事です——止めようと思って止まる種類のものではない。外から与えられた物や他人の行為はここに入りません。荷物を堪える、雨を堪える、とは言えない。つまりこの動詞は他動詞の形をしていながら、目的語が主語の内部にあります。自分の一部を自分で押さえるという、再帰的な構造を持っている。
目的語のありかについては、もう一段変わった点があります。押さえているあいだ、涙はまだ流れていません。ヲ格に置かれた名詞が指しているのは、その場に存在している物ではなく、押さえに失敗したら生じたはずのものです。似た構造は他にもあって、穴を掘る、と言うとき、掘りはじめの時点で穴はまだありません。動作が完了して初めて目的語が現れる型です。ところがこちらは向きが逆になっている。動作が最後まで果たされたとき、目的語は存在しないままです。成功すれば涙は現れず、現れたのなら押さえるほうが失敗している。目的語が出現しないことを達成条件にしている動詞は、そう多くありません。書き手がこの句を置いた時点で、読者はまだ見ていないものを一度想像させられていることになります。
この構造は、態の作りにくさにも表れます。受身にしようとすると行き場がなくなる。他人の涙を代わりに堪えることはできないので、受身の主語に立てる相手がいないからです。使役の「堪えさせる」も、状況を作って我慢を強いるという回りくどい読みでしか成立しません。他動詞は普通、受身と使役の両方を自然に取ります。それが取れないというのは、目的語が動作主の外へ出ていない証拠になる。文法上の他動詞と、意味上の他動詞は別物だということです。相互の形も作れません。互いに堪え合う、という言い方が成立しないのは、押さえる相手が二人のあいだにないからです。動作は一人の内側で完結していて、外へ向かう線を一本も持たない。
表記の側にも、判断を要する場所が一つあります。この字は二つの語を担っていて、たえる、とも読める。常用漢字表がこの字に認めている訓は「たえる」のほうだけで、こらえる、は表に載っていない読みです。しかも二語は格支配が違う。見るに堪えない、はニ格で、力は外から加わってきます。ヲ格を取っているほうは、押さえる相手が内側にある。同じ一字が、外から受ける動作と内から押し戻す動作の両方に使われているわけです。読みを決めているのは字ではなく助詞になる。ヲ格が立っていれば、読者はほとんど無意識にこらえるのほうを選びます。読みの指定を助詞へ丸ごと預けられるという事情が、この表記が定着した理由の一部になっているのかもしれません。
似た漢字を当てることのある「耐える」と比べると、格支配が違います。寒さに耐える、批判に耐える、はニ格で、力は外から来る。こちらはヲ格で、力は内から出る。表記の上では紛れることがありますが、助詞の選び方は逆向きです。ニ格は受け止める姿勢を、ヲ格は押し戻す姿勢を示す。人物が外圧に耐えているのか、自分の内側と押し合っているのか。書き分けの手がかりは、動詞ではなく助詞のほうにあります。
時間の扱いにも癖があります。「堪えた」は瞬間の完了ではなく、幅を持った努力が終端に達したことを表す。だから「三秒堪えた」と言えるし、進行形も自然で、しかも結果状態としては何も残らない。押さえ続けている間だけ成立し、放せば即座に終わります。成功しても何も起こらないので、句点で切ると次に書くことがなくなる。実際の文章では、この動詞の後ろにはほぼ必ず逆接が続きます。堪えた、が、声が漏れた——読者はこの型を知っているので、動詞が現れた時点で失敗を予測する。予測されること自体は弱点ではありません。予測させておいて堪えきらせれば、その人物の強さが一行で立つ。構文の傾きは、逆らうためにも使えます。