石を投げ込んだあと、水面が閉じるまでに数秒あります。落ちたのは一瞬で、そこから先、石は見えないまま下がり続けている。この動詞が引き受けているのは落下ではなく、その見えない数秒のほうです。落ちるは点、下がるは線、そして水の中へ入ってからのそれは、抵抗を受けながら遅くなっていく線になる。同じ物理現象を三通りに切り分けられるという事実は、場面を書くときに毎回効いてきます。
もうひとつ、この語には行為者の席がありません。船が沈没した、と書けば誰の責任も文面に現れない。船を沈めた、と書けば主体が立つ。事故の場面で書き手が最初に決めるのはたいていここで、視点人物が加害の側にいるのか、ただ見ている側にいるのかが、他動詞と自動詞のどちらを選ぶかに露出してしまう。空いた席をわざと空けたままにするのか、埋めるのか。文法上の選択に見えて、実際には誰の物語なのかを決めている。
奇妙なのは、日没にこの動詞を使うことです。太陽は水に入らないし、地平線の下にあるのは水ではありません。それでも落ちるとは言わず、下がるとも言わない。地平線を水面に見立てる古い層が、この用法にはそのまま残っているように見えます。だからこそ日没の描写は擦り切れやすい——ほとんどの書き手がこの一語で片づけるので、読者の側に画が立たない。西の空を書きたいなら、下がっていく速度か、光の角度か、影の伸び方のどれかを具体で持ってくる必要があります。
厄介なのは、この語がとうに比喩として磨り減っていることです。気分が、声が、表情が、街が。どれも定着しきっていて、読者は水を思い浮かべません。手垢の見分け方は単純で、元の像が起動するかどうかを見ればいい。起動しないなら死んだ比喩です。ただしそこで、使ってはいけないという結論に飛ぶと損をする。摩耗した比喩は読み飛ばしやすいという長所を持っていて、地の文の速度を落としたくない箇所ではむしろ有効に働く。全部を生きた比喩で埋めた文章は、読者を数行ごとに立ち止まらせて疲れさせます。
起こし直したいときには、重さか媒質のどちらかを近くに置くのが確実です。泥、毛布、湯、椅子の座面。腕が重い、という一文を先に置いてから気分の話へ渡すだけで、死んだ比喩は半分ほど生き返る。具体的にやってみると差は歴然です。「彼女の気分は沈んでいた」とだけ書けば読者は速度を落とさず通過する。前に「持ち上げた鞄が思ったより重かった」と置いてから同じ文を続けると、重量の感覚が直前に残っているので、後の一語が身体のほうへ引き戻される。語を替えたのではなく、直前の一文を替えただけです。逆に、水の像を起こしたくないなら、周囲から液体も重量も一切排除しておく。どちらに転ぶかは語そのものではなく、半径二、三行の中に何が置かれているかで決まる——ここが実務としていちばん扱いやすい部分です。
最後にアスペクトの話をしておきます。終点を持つ動詞なので、「〜んでいく」の形にすると、読者は底までの残り距離を無意識に測り始める。章の末尾に置けば、次の章が始まるまでの空白が、そのまま沈降にかかる時間として読まれます。逆に章の冒頭に置くと、すでに底にあるものを扱う話になり、読者は下降ではなく静止を受け取る。同じ一語が、配置の違いだけで運動にも状態にもなる。選ぶべきなのは語そのものより、その語をどの行に置くかです。