英語に移そうとすると、一語では収まりません。drop out は自分の意思で降りること、fall behind は速度の差でついていけないこと、be left behind は他の者に置いていかれること。日本語のこの一語は、三つの区別を持たないまま全部を引き受けています。訳し分けを迫られてはじめて、もとの語が何を言わずに済ませていたのかが見えてくる。訳しにくさは、たいてい情報量の多さではなく、空欄の存在から来ます。原文が埋めていない欄を、訳文の文法が埋めろと要求してくる。
他の言語も覗いておくと、分け方の癖がもっと見えます。ドイツ語には、座ったままでいるという成り立ちの動詞があり、進級できずに同じ学年へ留まることを指します。フランス語には、学年をもう一度繰り返すという形の動詞がある。どちらも制度の手続きを名指す語で、意味の中心に学校の決定が入っています。誰が決めたのかが、語の内側に折り込まれているわけです。日本語のこの動詞には、その手続きが見当たりません。制度の措置ではなく、人の身に起きた出来事として述べる。だから学校の外へも持ち出せて、職場でも、稽古事でも、同じ形のまま使えます。適用範囲の広さは、制度から切り離されていることの副産物です。裏返せば、手続きを名指す語は、手続きが終われば使えなくなる。留年した生徒はいつか進級し、その語の対象ではなくなります。
引っかかるのは、この語が自動詞だということです。文法上の主語は落ちこぼれる本人ですが、動作の主体という感触がない。俵から米がこぼれるように、意思の外側で起きる出来事として語られます。原義もそこにあります——こぼれるとは、容器から溢れて外へ落ちること。刈り取りのあとに残る落穂も、誰かが落としたのではなく、こぼれたものです。行為者の名前が最初から欠けていて、しかも欠けていることが不自然に感じられない。この自然さが、この語の流通した速さと関係していると考えられます。
自動詞性は、訳せなさの中心にもあります。drop out は主語が選んだことを含意し、be left behind は置いていった側の存在を暗示する。日本語の形は、選んだのが誰か、置いていったのが誰かを言わずに済ませる。だからこの語は、制度への批判にも、当人への非難にも、同じ形のまま使えました。教育をめぐる議論のなかで広く使われるようになったとされますが、その使い勝手のよさは、空欄が両方向に読めることに由来していたと考えられます。批判する側と非難する側が同じ語を使い続けられるというのは、議論としてはかなり危うい条件です。
ここから、日本語は責任を曖昧にする言語だという話に進みたくなりますが、それは行き過ぎです。日本語には「見捨てる」「切り捨てる」「振り落とす」という他動詞がそろっています。誰が誰を、と言おうと思えば言えた。言えたのに選ばれなかった、という事実のほうが情報を持っています。言語が可能性を奪ったのではなく、可能な形のなかから一つが選ばれ、それが定着した。語形は言語の性質ではなく、ある時期の見方を保存した容器だと考えるほうが、実態に近い。
名詞にすると、事情がもう一段変わります。連用形から作られた名詞は人を指す呼び名になり、状態の記述だったものが所属の札に変わる。動詞なら一度きりの出来事として書けたものが、名詞では持続する身分として貼りついてしまう。英語で当てられる名詞のほうは、自分で降りた者という含みを残したままです。訳語のずれは、動詞の段階よりも、名詞にした段階でいっそう大きくなる。教育をめぐる議論のなかで、責任の所在を示すために他動詞へ言い換える提案が現れるのも、名詞形が誰の行為も示さないまま人を名指してしまうからでしょう。空欄を埋めようとする試みが、語形の側から起こることもあるわけです。
書くときは、この空欄に何を入れるかを決めることになります。本人が自称すれば諦めと自嘲、教師が使えば分類、親が使えば嘆き、旧友が使えば距離——同じ語が、話者の位置によって別々の意味を持ちます。だから地の文でこの語を使う場面では、語り手が今どの位置に立っているかを先に決めておく必要がある。空欄を空欄のまま置くのも一つの選択ですが、それは選択として意識されているときにだけ効きます。誰も落とさなかったのに人が落ちる、という書き方が刺さるのは、落とした者がいないことを読者が確かめられる場合だけです。