四つの拍を一つずつ切り離して並べてみます。チ、ン、モ、ク。四拍のうち一つは撥音で、それ自体は口を閉じたまま鼻へ息を抜く音です。そして最後の拍は、東京あたりの発音では母音が無声化することが多い。つまりこの語は、声帯の振動をほとんど伴わない音で終わっている。意味と音の実体が一致している例はときどきありますが、たいていは偶然です。まずは偶然かどうかを保留したまま、音だけを見ていきます。
同じ内容を担う和語と並べると差が出ます。しじま、しずけさ、だんまり。しずけさは同じ四拍ですが、四つとも子音と母音の組み合わせでできていて、母音が最後まで全部聞こえる。開いたまま終わるので、文の中に置くと余韻が残り、次の語へ音が続いていく感じになります。四拍の漢語のほうは、長さは同じでも中身が違い、撥音でいったん息を止め、語末で声を切る。文の中でブロックとして落ち、そこで一区切りができる。同じ「音のない時間」を指し、拍の数まで揃っているのに、語そのものの切れ方が正反対を向いている。だんまりに至っては、四拍のうち二拍が濁音と流音で、口の中で音がよく動く。無音を指す語ほど音が静かなわけではない、という当たり前の事実がここで確認できます。
音のない状態を語るのに音を使う、という捩れは擬態語の側でもっと露骨になります。しんとした部屋。がらんとした講堂。どちらも撥音で終わり、そこに音は鳴っていないのに、語のほうは鼻へ抜ける響きを持っている。撥音で終わる擬態語が広がりや持続の印象を担いやすいという指摘があり、この二語はその典型に見えます。二拍のしんは狭い場所の張りつめた無音を、三拍のがらんは容器の大きさごと無音を掴む。拍が一つ増えるだけで、無音の面積が変わる。
清濁も効いていそうです。だんまりには濁音が入る。濁音が大きさや重さ、粗さの印象と結びつくという指摘は繰り返しされていて、実験的な報告もあります。この語形には、黙ってやろうという構えがある——押し通す意志の色がついている。四拍の漢語のほうにはその構えがなく、誰かが決めたというより、場に起きた事態として現れる。清濁の差だけで説明しきれるものではありませんが、印象の一部を担っているとは言えそうです。
ここで自分に異議を出しておきます。音象徴の説明は、後から辻褄を合わせやすい。もしこの語が別の音形を持っていたとしても、意味を知っている限り、同じように「ふさわしい」と感じたのではないか。この疑いはかなり強く、音象徴の研究はこの交絡とずっと戦っています。それでも残るものはある。拍数とリズムは、印象の話とは独立に、文が進む速度を物理的に変える。四拍の名詞が主語の位置に来れば、述語が来るまでに四拍ぶんの猶予が生まれる。これは解釈ではなく計測できる事実です。
だから実務としては、印象より配置で考えたほうが確かです。四拍の漢語を置けば述語が遅れ、そこに一拍分の間ができる。会話の直後、間髪入れずに効かせたいなら、拍の少ない語のほうが早く届く。長い沈黙を書きたい段落で二拍の語を使うと、書かれた内容と読む速度が食い違います。読者は声に出していなくても、黙読の中で拍を刻んでいる。刻まれている以上、そこは設計できる。会話文の応酬が続いた直後に四拍の漢語を一語だけ置いて句点で閉じる、という処理がよく効くのは、意味が重いからではなく、直前まで一拍ずつ交換されていたリズムが、そこで四拍分まとめて止まるからです。音のない時間を書くのに、音の数を使う。