歓喜する

【かんきする】動詞

使い分けの視点

「歓喜する」は対象をヲ格で取らず、勝利に歓喜するのように原因をニ格で受ける、外から観測する語です。個人の内語より群衆や回想に向きます。周囲の高揚と視点人物の静止を対置すると、語の集団性が効果になります。

同義語

同品詞の類義語

はしゃぐcolloquial
沸き立つ文芸的
小躍りする

類義句

同品詞の慣用的言い換え

有頂天になる文芸的
舞い上がる
天にも昇る文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

祭りのような
花火のような文芸的
子供のような

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

嬉々として文芸的
熱狂的に
手放しで

体言的言い換え

用言を体言に変換

愉悦文芸的
熱狂文芸的
陶酔文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

顔をほころばせる
目を輝かせる
拳を突き上げる

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

群衆が沸くエッセイ関連

例文: 優勝旗が姿を現しただけで、まだ結果を知らない広場の群衆が沸く。

主語がいつも複数になる動詞——外から観測された喜びの扱い方

この二字は、仏典系の語彙では濁って読みます。歓喜天は「かんぎてん」、菩薩の修行の段階の最初に置かれる位は「歓喜地」で、これも「かんぎ」。ところが一般語として読むときは濁りません。濁る読みが仏教語のなかに残り、濁らない読みのほうが世俗へ広まった、という二層構造になっています。同じ字を書きながら、読み方ひとつで属する層が変わる語は、それほど多くありません。つまりこの二字には、日常の嬉しさとは別系統の高さが最初から付いていた。翻訳や祝辞のように目盛りの足りない場面でこの語が呼び出されてきたのは、その高さが要ったからでしょう。

訳語としての来歴も、その高さを裏づけます。ベートーヴェンの第九交響曲の終楽章で歌われるシラーの詩は、原題を An die Freude といいます。Freude はドイツ語の日常語で、子どもが誕生日に感じるものにも使える普通の名詞です。ところが日本では「歓喜の歌」として定着し、日常語の面影はどこにも残っていません。訳す側が、荘重な場にふさわしい語彙の棚からこの二字を取り出したからです。原語より一段高いところへ持ち上げられた語は、その後ずっとその高さで運用されます。祝辞、社史、記念式典の式辞。日常の嬉しさを言う場面には降りてこないまま、今日まで来ました。

もうひとつ、そのまま実務に効く事実があります。この動詞はヲ格を取りません。勝利に歓喜する、とは言いますが、勝利を歓喜する、とは言わない。対して「喜ぶ」は、勝利を喜ぶ、と対象を直接つかまえます。取れる格の違いは、その動詞が世界に対して何をしているかの違いです。対象を目的語として処理する動詞ではなく、ある状態へ移行する動詞——だから理由は二格からしか接続できない。書き手にとってこれは、この語を使う文には必ず「何によって」という前置きが要る、という制約になります。

ヲ格を取らないことは、さらに別の制約を生みます。受身が作れない。歓喜される、という形は立ちません。対象を取る動詞なら、その対象を主語に据えて受身にできますが、この動詞には据えるべき対象がない。ところが使役のほうは作れます。観客を歓喜させる、は自然な言い方です。受身は不可、使役は可——この非対称は、語がどちら側から見られているかをもう一度示しています。この状態にある者は、それを引き起こされる側であって、何かに働きかける側ではない。

だから主語が複数に偏ります。観衆が、場内が、街が、チームが。単数の個人を主語に据えると、とたんに芝居がかる。当人は、自分が今その状態にあることをこの語では言わないからです。喜びの最中にいる人間の内語として置くと、その人物が自分を実況しているように読めてしまう。一人称の地の文で浮くのは、文体が古いからではなく、視点の位置が語と合っていないためです。

隣の語と入れ替えてみると、主語の型の違いがはっきりします。場内が沸いた、街が沸いた。「沸く」も集合を主語に取り、しかも場所そのものを主語にできます。会場が沸く、と書いても擬人には見えません。ところがこの動詞を同じ位置へ置くと、場所のほうが人格を帯びはじめる。街が歓喜する、と書けば、街に意志があるかのように読めてしまいます。「沸く」が液体の状態変化から来ていて主語に心を要求しないのに対し、こちらは心の状態を名指す語だからです。群衆を一行で片づけたいときにどちらを選ぶかで、その群衆が背景として通り過ぎるのか、一時的にせよ登場人物として扱われるのかが決まります。

裏を返せば、使いどころははっきりします。ひとつは群衆の側を一行で片づけて、視点人物の孤立を浮かせる場面。周囲が沸いているのに主人公だけが動けない、という配置では、外から観測する語であることがそのまま効きます。もうひとつは、時間が経ってからの回想。当時の自分を外側から見る視点なら、単数主語でも成立する。避けたいのは名詞形の慣用へ流れることです。歓喜に沸く、歓喜の渦、といった句には手垢が厚く積もっている。動詞形を選ぶだけで、そこを通らずに済みます。三つめの使い方として、否定形で置く手もあります。誰も歓喜しなかった、と書けば、本来ならそこが沸くべき場面だったことが前提として立ち上がる。高さのある語は、否定されたときに落差のほうを残していきます。二字の重さを使うなら、重さの出どころを自分で分かっていたほうがいい。

文: hakadoru.ai 編集部

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