ヤ・ド・ル。三拍です。日本語の文はふつう述語で閉じるので、段落の最後に置かれた動詞の拍数は、そのまま読点から句点までの残響の長さになります。二拍の「見る」「する」で閉じた文は切り上がりが速く、四拍以上の「揺らめいていた」のような述語は尾を引く。三拍はその中間で、余韻を作るには足りるが、もたつくほどではない。文末に置かれることの多いこの動詞が、どこか収まりよく感じられるのは、意味の前にまず拍の問題があります。
拍のほかに、構文の短さが効いています。この動詞は自動詞で、典型的には「XがYに」という二項だけを取ります。助詞は二つ、内容語は三つ。それだけで文が完結する。機能語の割に内容語が多く、短いのに情報の詰まった文になりやすい。そういう文は、地の文の中でアクセントとして働きます。逆に、密度の高い短文が続けば読者は休む場所を失う。この動詞で三文続けて閉じた段落が息苦しくなるのは、内容の問題ではなく配分の問題です。
長編の地の文で文の長さを測っていくと、分布はたいてい左に山があって右に長い裾を引く形になります。短い文が多数を占め、まれに長い文が混じる。この裾の有無が文体の印象を大きく左右する部分で、平均文長が同じでも、分散が小さい文章は単調に読まれます。短く閉じやすい述語を好んで使う書き手は、知らないうちに分散を縮めていることがある。対策は簡単で、同じ内容を一度だけ長い一文に組み替えてみる。分布の裾を意識的に作るという作業は、推敲の中でもっとも効果が見えやすいものの一つです。
文の長さと並んで、読点の間隔も測る価値があります。句点から句点までではなく、読点から読点までを数えると、その文章がどれくらいの単位で息継ぎをしているかが見える。二項しか取らない構文は読点を必要としないので、この動詞で組んだ文はしばしば読点ゼロで終わります。読点ゼロの文が連続すると、行は整然としますが、呼吸の変化がなくなる。逆に、主語の前に長い修飾を積んでから同じ述語で閉じれば、一つの文の中に緩急が生まれます。同じ動詞を使いながら印象を変える余地は、動詞の手前にどれだけの語を置くかという配分の側に残されている。
もう一つ、計量から見て無視できないのが共起の固定化です。この動詞の主語には、光・命・意思・魂といった限られた名詞が繰り返し立ちます。特定の組み合わせが強く結びつくと、前半を読んだ時点で後半が予測できてしまう。情報理論では、生起確率の高い事象ほど、それが起きたときに得られる情報量は小さいと定式化されます。予測できる語は、意味は伝えても驚きを伝えない。手垢という感覚的な表現は、この情報量の低下をかなり正確に指しています。
では手垢を落とすには何を変えればよいか。動詞そのものを別の語に置き換えるのは一つの手ですが、それだと文の拍と構文の短さという長所まで捨てることになります。もっと安上がりなのは、二つの空欄のうち片方だけを珍しくすることです。主語を光から外す。あるいは着地点を瞳や胸から外し、机の木目や、洗い忘れた茶碗や、階段の三段目に変える。二項しか取らない構文だからこそ、片方を動かした影響がまるごと文に出ます。短い文ほど、一語の入れ替えが効く。