長い原稿を通して読んでいると、同じ語が三通りの姿で現れることがあります。「柔らかな声」「柔かな光」「やわらかな手ざわり」。書いた本人は気づいていないことが多い。指摘すると、たいてい「どれが正しいのか」と訊かれます。この問いに正面から答えるのが難しいところに、日本語の表記の事情がよく出ています。答えは「三つとも規範の内側にあり得る」で、だからこそ選ばなければならない。
送り仮名については、昭和四十八年の内閣告示「送り仮名の付け方」が拠りどころになっています。これは法令や公用文、新聞などの表記の目安として広く参照されているもので、本則のほかに許容を併記する構成を取っています。この語のような形容動詞の語幹については、本則で送る形が示され、そのうえで別の送り方を許容として認める箇所がある。つまり告示そのものが、揺れを一本化するのではなく、揺れの幅を明示する文書として書かれている。規範があるのに一意に定まらないのは、規範が緩いからではなく、書きことばの実態が複線だったからだと考えられます。
揺れの原因は、告示の側だけにあるのではありません。この語には、形容詞の「柔らかい」と、形容動詞の「柔らかだ」が並んで生きています。名詞にかけるときも「柔らかい手」と「柔らかな手」の二通りができ、どちらも現代語として自然です。同じ内容を担う語が、二つの品詞にまたがって共存しているという状態自体、それほど多くはありません。しかも送る仮名の長さが違う。前者は「らかい」の三字、後者は「らか」の二字——一字ぶんの差が、活用の有無をそのまま写しています。表記の判断が、語形の選択と絡まりあっているわけです。原稿に三通りが並んでいるとき、そのうちいくつかは送り仮名の迷いではなく、品詞をどちらに寄せるかの迷いの痕だったりします。校正で機械的に片方へ寄せると、そこだけ文の調子が変わることがあるのはそのためです。
字の選択にはもう一段の揺れがあります。常用漢字表には、この語にあたる訓を持つ漢字が複数収められています。硬さの反対を表すのに「柔」を使うか「軟」を使うかは、表の上ではどちらも認められている。慣用としては、しなやかさや弾力があるものに「柔」、硬くない・脆いというほうに「軟」を当てるという説明がよく聞かれますが、これは公的に定められた区別ではありません。実際、肉の話をするときにどちらを選ぶかは、書き手や媒体によって割れます。規範が決めていない領域で、各自が自分の慣用を規範だと思っている——表記の議論が長引く理由の大半はここにある。
ここで少し立ち止まりたいのは、字面そのものが意味と逆向きに働く点です。この語が指しているのは、押せば凹み、力を受け流す性質です。ところが漢字で書けば、画数の多い字が語頭に立ち、輪郭の硬い塊として紙面に置かれる。仮名に開けば、字の形は丸みを帯び、前後の文字との境目も緩む。表記の選択は意味を変えませんが、読者が視覚的に受け取る手触りは確実に変わります。歴史的仮名遣いの「やはらか」まで含めて眺めると、この語は表記の履歴が特に厚い部類に入ります。
その一字の来歴も追っておきます。歴史的仮名遣いでは「やはらか」と書きました。語中や語尾のハ行の字がワ行の音で読まれるようになる変化は古い時代に起きていて、書き方だけが以前の形のまま長く残った。明治の読者も、目では「は」を見ながら口では「わ」と発音していたことになります。昭和二十一年に現代かなづかいが告示され、昭和六十一年の現代仮名遣いへ引き継がれて、表記が音の側へ寄せられました。この改定で消えたのは一字ではなく、文字と音のあいだにあったずれそのものです。ずれのあった時代の文章を引くとき、その一字を直すか残すかで、引用の距離が目に見えて変わります。原文どおりに「やはらか」と組めば、読者はまず時代を受け取り、意味はその後から届く。
実務としては、正しさを探すのをやめたほうが早い。決めるべきは、その作品の中で語り手がどの水準の書きことばを使う人物かということです。硬い漢語を多用する語り手が、この語だけ仮名に開くと、そこで文体の密度が落ちる。逆に、全体をやや開いた表記で書いている中に漢字表記が一箇所だけ混じると、その一文だけ声が変わって聞こえます。表記統一の作業は誤りの修正ではなく、声の一貫性の管理です。どれを選んだかより、なぜそれを選んだかを覚えておくことのほうが、第二稿で効いてきます。