論理学と言語哲学では、二種類の不確かさを区別します。一つは複数の解釈が成り立つこと。「彼は銀行へ行った」の銀行が、金融機関なのか川岸なのかで割れるような場合です。もう一つは、境界がどこにあるか決められないこと。髪が何本抜ければ禿頭かという問いに答えがないような場合です。前者は解釈の数の問題、後者は境界の問題——原因も対処も違います。英語ではこれを ambiguity と vagueness という別の語で呼び分けます。前者は文脈を足せば解消しますが、後者は文脈をいくら足しても解消しません。境界がないことは情報の不足ではなく、対象の側の性質だからです。この区別は用語の整理ではなく、対処の可否を分ける線です。
日本語の「曖昧」は、この二つの上に一枚の布のようにかぶさっています。多義で困っているときにも、境界が引けなくて困っているときにも、同じ一語で足りてしまう。だから訳す段になると、原文の書き手が選ばなかった区別を、訳者が代わりに選ぶことになります。ambiguous、vague、obscure、equivocal、noncommittal。どれを当てるかで、原文が言っていなかったことが英語の側には書き込まれてしまう。翻訳の難所とは、多くの場合こういう非対称のことです。語彙が足りないのではなく、分節の線の引かれ方が違う。線の細かい側から粗い側へ訳すときは情報が落ち、粗い側から細かい側へ訳すときは情報が足されます。
訳語の選択が、そのままテキストの主題になった例があります。一九九四年のノーベル文学賞受賞講演で、大江健三郎は演題を「あいまいな日本の私」としました。川端康成の「美しい日本の私」を踏まえた題で、英語では ambiguous が当てられています。近代日本が抱えた引き裂かれ、どちらとも決めきれなかった位置を指す語としての選択であって、境界の不明確さを言う語ではこの意図は立ちません。二つの方向のあいだで引き裂かれていることと、輪郭がぼやけていることは、まるで違う状態だからです。訳語が主題を選び直してしまう場面が、実際に世界の前で起きた例だと言えます。一語の選択が講演の骨格を決めた出来事でした。
逆向きも見ておく必要があります。英語の vague を日本語に移すとき、「漠然とした」「ぼんやりした」が自然な場合が多く、「曖昧」を当てると余計なものが付いてきます。この語には、態度を明らかにしない、責任の所在をぼかす、という評価的な含みがあるからです。状態の記述であるはずのものが、いつのまにか非難になっている。現代中国語の同じ二字は、男女間の微妙な関係を指す方向へ寄っているとも言われます。字が共通していることは、意味が共通していることを保証しない。漢字圏の語を扱うときに、いちばん足をすくわれやすい場所です。借りた字が、借りた先でそれぞれ別の含みを育てていく——同じ形をした語ほど、対照は慎重に行う必要があります。
書き手の実務に落とすと、ここは分岐点になります。人物の返答がはっきりしないとき、それは複数に読める答えを返したのか、程度の指定を避けたのか、態度そのものを保留したのか。三つは別の演出です。一つ目なら、あとで誤解が発生して物語が動く。二つ目なら、読者は判断を宙吊りにされる。三つ目なら、その人物の性格の情報になる。一語で済ませられてしまうからこそ、書く前にどれかを決めておく必要がある。決めておけば、次の場面で回収すべきものが自動的に決まります。誤解なら訂正の場面、宙吊りなら解決の場面、保留なら態度を示す場面。決めずに書いた不確かさは、たいてい読者に届く前に消えます。