原稿の余白に赤い字で「ここ、わかりにくい」と書き込まれたとき、書き手が最初にする対処は、たいてい間違っています。指摘された段落に説明を足すのです。修飾語を増やし、省いていた主語を戻し、因果関係を接続詞で明示する。それで赤字は消えます。けれど消えたのは指摘であって、問題ではないことがある。読み手が足を止めたのは情報の欠落ではなく、焦点の置き方だったのかもしれない——そう疑い直すところから、この語をめぐる厄介が始まります。輪郭のぼやけた文章と、輪郭のぼやけた対象を書いた文章は、直し方がまるで違うからです。
語の側にも、その区別に対応する目盛りがあります。この三字が掛かる先を集めると、発音、輪郭、映像、記憶といった、受け取る側の知覚に属するものばかりが並ぶ。判断や約束にかかる「曖昧」とは、そこが違います。曖昧な返事は内容が定まっていないほうに読まれ、不明瞭な返事は、まず声が届かなかったほうに読まれる。しかも前者を測る手立てはありませんが、後者にはある。音声を扱う分野では、聞き手が正しく聞き取れた割合を明瞭度と呼んで数値で示します。受信の失敗として定義されているから、量として測れる。赤字の「わかりにくい」が厄介なのは、この二つを区別しないまま同じ一言で届くからです。
区別の入口として、制御されていない曖昧さと、制御されている曖昧さを分けてみます。霧の中に立つ人物の輪郭が見えない、と書く。このとき見えていないのは視点人物なのか、読者なのか。両者が一致していれば場面は成立しますが、書き手の頭の中では人物の顔がはっきり見えていて、文章の上でだけ見えていない、という状態がしばしば起きます。読者はその段差を、描写の不足として受け取る。同じ「見えない」でも、原因が場面の側にあるか筆の側にあるかで、読後の手触りは別物になります。
ここで引っかかります。制御された曖昧さという言い方は、あまりに都合がよい。うまくいった曖昧さを後から制御と呼び、失敗したものを不足と呼んでいるだけではないのか。実作の場面では、書いている本人にその区別がつかないことのほうが多いのです。判定の手がかりを探していくと、外から確かめられるものがひとつだけ残ります。その箇所を読んだあとで、読者が何かを予測するかどうか。制御されている曖昧さは、読者に仮説を立てさせる。制御されていない曖昧さは、読者の推測をどこにも向かわせないまま、次の段落へ押し流してしまう。
この基準を持って既存の型を見直すと、扱いに困るものが出てきます。「彼は何か言いかけて、口をつぐんだ」。教科書的な形で、読者は当然その先を予測します。ただし予測される内容が毎回ほぼ同じであるために、仮説が立った瞬間に興味のほうが終わる。すると条件はもう一段しぼれます。曖昧さが働くのは予測が生まれるときではなく、複数の予測が同じ強さで並び立つときだった。言いかけてやめる人物が、直前に二つの別々の事情を抱えていれば、同じ一文が息を吹き返します。文の書き方より前の、状況設計の側に鍵がある。
だから処方はひとつに絞れます。輪郭をぼかしたい場面では、ぼかす理由を場面の側に置く。照明が足りない、距離がある、聞き手が別のことに気を取られている、語り手の語彙がその対象に追いついていない——理由が本文のどこかに立っていれば、読者は不足ではなく状態として受け取ります。逆に理由を置かないまま輪郭だけ薄めた文章は、推敲のたびに説明が増え、最後には説明だけが残る。赤字への正しい応答は、足すことでも削ることでもなく、なぜここが見えないのかを一行、場面の側に書き足すことでした。