英語の starry-eyed をそのまま「星のような瞳の」と置き換えると、意味がずれます。英語のこの複合語には、現実を見ないまま理想に浮かれている、という含みがある。文脈によっては、たしなめる言葉として使われる。日本語の「星のような瞳」に、その方向の含みはほとんどありません。同じ天体を使った同じ形の比喩が、片方では純真さの称賛になり、片方では甘さの指摘になる。ずれの原因を、単語の意味の差に求めたくなる。求めてみると、うまく行きません。
まず語の分岐を見ておきます。英語の star は、天体と人気者を一つの語で担っている。日本語はここを分けました。芸能の意味は片仮名のスターとして入り、漢字のほうはほとんど引き受けていない。だから日本語のこの句は天体の側だけを指せる——曖昧さがない。訳す側から見れば、曖昧さがない分だけ原文の二重性を落とすことになりますが、starry-eyed のずれは二重性の問題ではない。称賛と揶揄の差は、star の語義ではなく、その比喩が担ってきた用法の履歴から来ています。
分岐のしかたは言語ごとに違います。フランス語の étoile も、天体と舞台の花形を一語で兼ねている。中国語では明星が芸能の側を引き受け、天体を指す語のほうは残りました。つまり日本語だけが特殊なのではなく、どの言語も天体の語を人へ貸し出していて、貸し出しの経路が違うだけです。ただ日本語には片仮名という第二の文字体系があったので、輸入した用法をそこへ隔離できた。表記の層が一つ多いために、語義の分岐が字面そのものに出ている。ほかの言語なら文脈で判別するしかない区別を、日本語の読者は目で見て済ませていることになります。もっとも、隔離が完全だったわけではありません。星屑、星取表、綺羅星といった語には、漢字の側にも人や評価へ寄った用法が残っています。ただしそれらは古い層に属していて、starry-eyed が前提にしている近代の芸能の輝きとは接続していない。借りた比喩がどこへ着地するかは、語義だけでなく、字の側が積んできた履歴にも左右されるということです。
称賛と揶揄の差が用法の履歴から来ているなら、履歴の違う別の星の比喩を見れば裏が取れるはずです。英語の lodestar は北極星を指し、そこから指針となる人や理想を意味します。こちらは揶揄になりません。同じ天体でも、位置を変えない一点として使われるときには信頼の語になり、遠くで小さく瞬く光として使われるときには頼りなさの語になる。日本語でも、北極星のような存在という言い方は不動と信頼を運び、瞳にかかる同じ直喩は輝きと儚さを運びます。指している対象は同じ夜空の光源なのに、比喩が拾い上げる属性が別なのです。starry-eyed が拾ったのは、瞬きと遠さのほうでした。
比喩を示す形式の粒度も違います。日本語には ような・めいた・めく・ごとき・さながら などが並び、古めかしさや改まりの度合いが階調をなしている。英語の like や as にはこの幅がない。したがって英語から訳すとき、原文が指定していない階調を訳者が決めることになる。星のような、星めいた、星のごとき。三つは同じ内容を運びながら、語り手の立ち位置をそれぞれ別の場所に置きます。訳文がどこか古びて見えるとき、原因が語彙よりも、この階調の選択にあることは少なくありません。
では日本語の側が豊かで、英語が貧しいのか。そうとも言えません。和歌の伝統では月を詠んだ歌が圧倒的に多く、星を主題にした歌は乏しいと指摘されてきました。星を美の中心に据える型は、日本語の中では比較的新しい部類に入り、近代の翻訳文学とともに厚みを増した部分が大きいと考えられています。階調は豊かでも、比喩そのものは輸入品である可能性がある。訳しにくさの正体は、語の対応よりも、比喩がそれぞれの言語で背負ってきた年数の差にあるのかもしれません。
借り物であること自体は弱点ではない。ただ、何を借りているのかは見ておいたほうがいい。この句を書いた瞬間、読者は輝きと同時に遠さを受け取ります。星は手が届かないところにあり、こちらを見返さない。英語の star が持つ、舞台の照明のような近くて熱い輝きは、日本語のこの言い方には乗ってこない。人物を近づけたい場面で使うと、比喩が距離を作ってしまって逆に働く。近さを出したいなら、灯、燐光、水面の反射——手の届く光源を探すほうが早い。同じ光でも、どこから来た光かで文の温度が変わります。