日没の直前、西の空は数分ごとに色を変えます。橙から朱へ、朱から灰がかった紫へ。窓辺に十分ほど立って眺めていると、さっき見た色は二度と戻ってこないことに気づきます。ところが原稿に書き込まれたほうは、たいてい一色で止まっている。変化しつづけていたはずの光が、「赤くて、少し寂しい」という固定された記号に縮んでしまう。手垢がついたと言われるものの正体は、語そのものではなく、この縮み方のほうにあるように見えます。
そう書いてみて、すぐ引っかかります。縮めるのは比喩の仕事です。情報を落とさなければ、それは比喩ではなく描写になる。だから「縮むから悪い」では何も説明できていません。効いている作例と効かない作例を並べ直してみると、差はむしろ修飾される側にありました。髪、砂、瓦、湯——すでに手触りを持つものに掛かったときは像が立ちます。別れ、想い、記憶といった抽象に掛けると、比喩と被修飾語が同じ方向へ寄りかかり、二つとも輪郭を失う。抽象を情感で修飾しても、情感が二重になるだけで何も見えてこない。
もう一つ、見落とされやすい条件があります。その光は必ず誰かが立ち止まって見ている、ということです。時刻があり、視線の高さがあり、その人物が今どこにいるかがある。河原の土手なのか、下り電車の窓なのか、洗い物の途中の台所なのか。この三つが決まっていれば、同じ一語でも読者の受け取りは変わります。比喩の質は、語を選ぶ瞬間より、語を置く手前の設計で決まる部分が大きい。うまく言えないのですが、陳腐に見える比喩の多くは、古さよりも、それを見ている人物が原稿の中に立っていないことに原因があるのだと思います。
この表現が痛みやすい理由には、もう一つ事情があります。読者の全員が実物を見たことがある、ということです。海底の光や雪原の朝焼けなら、読者は書かれたとおりに受け取るしかありません。ところが日没は、誰の記憶の中にも自前の映像がある。書き手が提示した像と、読者が持っている像が、その場で照合されてしまう。合わなければ嘘に見え、合いすぎれば当たり前に見える。共有されている経験を素材にした比喩は、成功の幅がもともと狭い。使い古されたと言われる表現の多くが、実は「検算されやすい表現」だったのだと考えると、対処の方向も変わってきます。避けずに、照合される前提で書けばいい。
実務としてできることは、色から離れることです。西日は入射角が低いので、部屋の奥の壁まで届き、家具の影を不自然な長さに伸ばします。物の側に起きている変化を一つ書けば、記号は像に戻る。時間で書く手もあります。あと五分で沈む、という切迫は、色の形容をひとつも使わずに同じ情感を運びます。日没は待ってくれない——この不可逆性こそが、この比喩がもともと持っていた力の出どころでした。
そして、使わないと決める判断も同じくらい実務的です。作中で一度しか使えない種類の比喩があり、これはその一つに近い。第三章で使ってしまうと、本当に必要な最終章で効かなくなる。どこで使うかを先に決めておくと、途中で誘惑に負けずに済みます。書き手が管理すべきなのは、語彙の豊富さより、強い一語を配置する場所の数です。