「息を」の後ろに立てられる動詞を思いつくまま挙げてみると、案外すぐに尽きます。呑む、殺す、潜める、詰める、吐く、吸う、整える、切らす、つく。十数語で打ち止めになる。名詞と動詞の組み合わせは原理的には膨大なはずなのに、実際に流通しているのはごく一部です。この偏りは辞書の作り方にも表れていて、これらの句の多くは動詞の側ではなく「息」の項の中に子見出しとして立てられます。核は名詞のほうにある、という編集上の判断です。名詞に紐づいた句がこれだけ育つ語は、身体語の中でもそう多くありません。
動詞の側から集めると、別の集合が現れます。「呑む」が取る目的語を並べてみると、涙を呑む、条件を呑む、要求を呑む、恨みを呑む、といったところが並ぶ。飲食の場合を除けば、どれも、外へ出そうになったものを出さずに内へ収める動きです。表記の上で飲食の「飲む」と書き分けられてきたのも、この系列が別のものとして意識されていたからでしょう。そこへ息を並べると、句の読み方が変わります。驚きを表明する句ではなく、出かかった呼気をその場で止める句だった。声も涙も要求も、いったん体内に押し戻す——同じ形の動きが、目的語を替えて繰り返されているだけです。
偏りが強いということは、左側の文脈だけで右側がほぼ決まってしまうということです。「息を」まで読んだ読者の頭の中には、すでに数語の候補が並んでいる。予測が当たるので処理は速い。速いということは、注意が向かないということでもあります。書き手が呼吸の緊張を伝えたつもりでも、読者はほとんど立ち止まらずに通過している。共起の固さは、可読性と引き換えに存在感を差し出している。文字数としては五文字ぶんの場所を占めながら、読解の負荷としてはほとんど何も要求していない。速く読ませたいのか、そこで止めたいのか。決めないまま置けば、この句は自動的に前者の側へ働きます。
そこで、右隣のほうを見てみます。この副詞句に続く述語を集めると、こちらにも偏りがある。見つめる、見守る、聞き入る、待つ、成り行きを追う。受容を表す動詞が目立ち、殴る、走る、叫ぶといった能動的な動詞はほとんど来ません。文法的に禁じられているわけではないのに来ない。ここから逆算すると、この形が担っているのは驚きの表明というより、動きを止めて何かを受け取る姿勢の指定だ、ということになります。語の意味は共起する語の集合によって特徴づけられる、という分布仮説の考え方が下敷きにあります。この見方は Zellig Harris に帰されるのが通例です。
ただし、分布から意味を読むことには限界もあります。共起表が示すのは実際に書かれた組み合わせであって、書ける組み合わせではない。息を呑んで殴りかかる、という文はほとんど流通していませんが、読めば意味は通るどころか、受容の姿勢と暴力が同居することで奇妙な緊張が生まれます。統計は前例を教えてくれるだけで、可能性の輪郭を教えてはくれない。言い換えれば、頻度表の空白には二種類あって、言語が禁じている空白と、まだ誰も踏んでいない空白が、同じゼロとして並んでいます。
固い共起には、もう一つ副作用があります。摩耗です。連体形の「息を呑むような」は、美しさ、絶景、迫力といった限られた名詞へ結びつき、観光の案内文や広告の見出しの中で使い減りしました。強い句ほど早く減るのは、多くの書き手が同じ場所で同じ形に手を伸ばすからで、頻度が上がるほど一回あたりの効き目が下がる。減った句を蘇らせる方法があるとすれば、修飾される名詞のほうを取り替えることでしょう。息を呑むような書類、と書けば、読者は一度立ち止まります。定型が壊れたのではなく、定型の片側だけが入れ替わったからです。ただし、替えた結果がどう転ぶかまでは選べません。その書類が滑稽に見えるか、不気味に見えるかを決めているのは、句そのものではなく直前の三行のほうです。
実務に落とすと、選択肢は二つに分かれます。固い連鎖をそのまま使い、読者を素早く通過させて、力点は別のところに置く。あるいは右隣を意図的に外し、通過するつもりだった読者をそこで一度つまずかせる。後者を狙うなら、外し方は一箇所に限るべきでしょう。左も右も同時に崩せば、読者は文の型を見失って、緊張ではなく違和感だけを受け取ります。予測を裏切る効果は、予測が生きている場所でしか発生しない。定型を嫌って全部を新しくすると、裏切るための足場そのものが消えてしまう。