生理の順序では、吸うことが先で、吐くことが後です。ところが文章に現れる回数は、経験的には逆に見えます。吸う場面はほとんど書かれず、吐く場面ばかりが書かれる。吸うほうが文に出てくるのは、たいてい号令や指示の場面です——潜水の前、注射の前、歌い出しの前。理由を呼吸生理に求めても答えは出ないでしょう。むしろ動詞の側の事情ではないか、と考えてみたくなります。
「吐く」がヲ格に取れる名詞を思い浮かべていくと、共通点が見えてきます。息、ため息、唾、血、痰、そして弱音、暴言、嘘。前半は物理的に体内から出てくるもので、後半は出てくるものとして比喩化された発話です。この動詞は、対象が内から外へ移動する経路を、意味の中にあらかじめ持っている。だから経路を持たない名詞は座れません。水を吐く、は飲みすぎた場合にだけ成立し、机を吐く、は成立しない。格支配というと形式的な話に聞こえますが、実際に働いているのは意味の側の条件です。
対になる動詞を見ておくと、偏りの正体がはっきりします。「吸う」が取るのは、息、煙草、水分、蜜、養分。どれも外から内へ入ってくるもので、経路の向きが逆なだけに見えます。ところが比喩の生産性を比べると、二つはまったく釣り合っていません。弱音を吐く、本音を吐く、泥を吐く、暴言を吐く。内から外への移動は、そのまま発話の比喩に転用できる。反対に、弱音を吸う、本音を吸うとは言えません。吸う側の比喩は、知識を吸収するというように漢語の方へ流れてしまい、和語のままでは発話に届かない。言葉が身体の内側から出ていくものとして捉えられている以上、この偏りは当然といえば当然で、冒頭の疑問にもここで見当がつきます。書ける場面が多いのは、最初から吐く側だったわけです。
次に気になるのが自他の非対称です。「息が吐かれる」という受動形は、書けば書けるものの、日本語としてほとんど使われません。代わりに置かれるのは「息が漏れる」「息が上がる」といった自動詞で、こちらは主体の意志を消します。同じ呼吸という現象を、意志のある行為として書くか、勝手に起こる事態として書くかを、動詞の交替ひとつで切り替えている。落胆した人物を描くとき、吐くを選ぶか漏れるを選ぶかで、その人物がまだ自分を制御しているかどうかが決まる。文法上の対立が、そのまま人物の状態の記述になっています。
アスペクトのほうは、もう少し厄介です。「息を吐いた」は一回の出来事として読まれ、「息を吐いている」は継続として読まれる。ここまでは素直です。ところが「息を吐いていた」になると、持続していたのか、何度も繰り返していたのかが決まらない。一回性の強い動詞に継続の形式をかぶせたときに生じる曖昧さで、これは書き手が意図しても解消できません。回数を確定させたければ、副詞を足すか、動詞を替えるしかない。何度も、ゆっくりと、一度だけ——副詞は曖昧さを消す代わりに、文を一つぶん長くします。短く置きたいという要求と、回数をはっきりさせたいという要求は、この動詞の上でよく衝突します。
余談ですが、ため息のほうは「吐く」ではなく「つく」を取ります。この「つく」については、嘘をつくの「つく」と同じく「吐く」に由来するとする説がありますが、断定できるほど固まってはいないようです。ただ、現代語の運用としては別の動詞として振る舞っている。だから「ため息を吐く」と書くと、わずかに強い、あるいは古めかしい印象が出る。定型から外れたぶんが目立ちとして残るわけです。加えて、この動詞には待遇の面もあります。「何を吐かす」という言い方が残っているとおり、活用を変えれば罵倒の側へ振れる余地がある。暴言を吐く、が非難の含みを帯びるのは、目的語の意味だけによるのではありません。呼吸に使うときも、無色の動詞を選んだつもりで、わずかに荒い手触りが一緒に来ています。
実務のうえで効いてくるのは、この動詞が文を自足させることです。息を吐いた、は補語を要求せず、そこで文が閉じられる。長い会話や動作の連鎖のあとに、五文字で切れる短文をひとつ置けるということで、これは呼吸の描写であると同時に、文のリズムの調節弁でもある。書き手が無意識にこの表現を選び続けてしまうのは、意味より先に、この構文的な使い勝手のほうに手が伸びているからかもしれません。ただし自足する文は、続けて置くと場面を刻みすぎます。三度も並べば、その人物は呼吸だけしている人になる。便利な構文ほど、原稿の中で何度使ったかを数えておく価値があります。