息を呑む美しさ

【いきをのむうつくしさ】名詞句

使い分けの視点

「息を呑む美しさ」は、対象の性質より先に見る者の反応を告げる表現です。「目を奪う麗しさ」「視線を釘付けにする麗しさ」は目の停止を、「胸を打つ華麗さ」「胸を貫く端麗さ」は感情への衝撃を強めます。美を直接評価するだけでなく、光、湿度、距離など美が現れる条件を置けば、場面固有の印象になります。

同義語

同品詞の類義語

目を奪う麗しさ文芸的
圧倒的な綺麗さ
胸を打つ華麗さ文芸的
比類なき優美さ文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

声を奪うほどの艶やかさ文芸的
視線を釘付けにする麗しさ文芸的
胸を貫く端麗さ文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

聖画のような気高さ文芸的
夜空に咲く花火のような艶やかさ文芸的
深い湖面のような透徹した綺麗さ文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

眼前の景色に言葉を失う文芸的
胸が締めつけられるほど見惚れる文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

ささやかではない端麗さ
胸を貫くほどの綺麗さ文芸的
けっこうな綺麗さcolloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

暗がりに浮く漆の艶エッセイ関連

例文: 暗がりに浮く漆の艶を、客は灯を近づけず長いあいだ眺めていた。

名指すことの困難——近代小説が美を書くために選んだ迂回路

川端康成が一九六八年にノーベル文学賞を受け、その講演に「美しい日本の私」という題を掲げたことは、よく知られています。美という語を正面に据えた題です。しかしその川端の小説を読み返しても、地の文で美しいと断定している箇所は、意外なほど少ない。題では名指せるのに、本文では名指さない。この差が何に由来するのかを考えていくと、近代日本の散文が抱えた事情に行き当たります。講演は日本の文化について外へ向けて語る場であり、小説は読者にその場面を体験させる場です。名指しが許される場と、許されない場が分かれている。

夏目漱石の『草枕』は、画工を語り手に据えて美を論じ続ける小説です。ただし論じることと描くことは別で、あの作品で美が実感として立ち上がるのは、議論の部分ではなく風呂場や山道の描写のほうでしょう。谷崎潤一郎が昭和初期に書いた『陰翳礼讃』はさらに徹底していて、美そのものではなく、美が成立する条件のほうを書きます。漆器の艶は暗がりの中でしか現れない。だから語るべきは漆ではなく暗がりだ、という論法です。対象を直接指さず、条件や環境を書く——近代の書き手が繰り返し選んだ迂回路がここにあります。

理由の一端は、「美しさ」という語形そのものにあるのかもしれません。形容詞の語幹に「さ」を付けて名詞にする形式は古くからありますが、名詞にした途端、美は多い少ないで測れる量になります。量になったからこそ、その手前に程度の指定を置ける。息を呑むほどの、という修飾が接続できるのは、対象があらかじめ目盛りを持つ量として扱われているからです。逆に言えば、この形を使った瞬間、書き手は美を測定可能なものとして提示していることになる。名詞化は便利ですが、便利さの代わりに、対象を他と比較可能な平面へ引き下ろします。

ここで反対の考えも書いておくべきでしょう。反応を書くという方法自体は、迂回路として有効です。登場人物が言葉を失うところを描けば、読者は自分の反応をそこへ重ねられる。だが、その方法が広く行き渡ると、反応の描写のほうが定型化します。志賀直哉の文章がいまも参照されるのは、反応を挟まず対象だけを短く置いて、判断を読者に返してしまう構えの強さゆえでしょう。反応を書く方式は、書き手が結論を先に出してしまう危険と隣り合わせにある。しかもこの名詞句は、反応と評価を一語に畳み込んでいるぶん、危険が二重になっている。

そう考えると、この名詞句を使うときの分かれ目が見えてきます。反応と評価を畳んだまま置けば、その一語は場面の要約として働き、読者は判断を受け取って先へ進む。要約が要る場面はあるので、それ自体は失敗ではありません。ただしそこで読者に届くのは光景ではなく、光景が済んだという報告です。もう一方の道は、名詞句をほどいて条件のほうへ降りること。光の角度、湿度、見ている者の疲労。近代の書き手たちが繰り返し選んだのは後者でした。彼らが遠回りをしたのは奥ゆかしさからではなく、名指すという行為が対象を平らにしてしまうことに気づいていたからだと思われます。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →