一九六〇年のフランス映画に、À bout de souffle という題のものがあります。直訳すれば、息の尽きるところ。英語圏では Breathless という題が与えられ、日本では『勝手にしやがれ』になりました。同じ作品の題が、息の枯渇、息のない状態、そして開き直りの台詞へと、三方向に散っている。翻訳の分岐は、たいてい原語の焦点がどこにあるかを露わにします。この場合、フランス語の題が指していたのは終点で、英語の題が指していたのは欠如です。
英語の breathless は、日本語からするとかなり乱暴な語です。走ったあとの状態も指すし、感嘆で息を呑むような素晴らしさも指す。a breathless finish と言えば、手に汗握る決着のことでしょう。日本語ではこの二つは別の表現に分かれていて、消耗のほうと感嘆のほうを一語で受けることはまずありません。訳者はここで必ずどちらかを選ばされる。原語では未分化だった意味が、日本語に入るときに二股に分かれ、選ばれなかった側の含みは落ちる。
統語のほうにも、はっきりした非対称があります。英語で走ったあとの状態を言うなら He was out of breath や He lost his breath のように、所有代名詞か前置詞句が要ります。誰の息かを明示しないと文が成立しない。ところが日本語のこの表現は、所有者を一度も言いません。しかも息を目的語に取り、他動詞で操作する形をとっている。肩を落とす、目を伏せる、腹を立てる、眉をひそめる——日本語は自分の身体や生理現象を、いったん自分から切り離して対象化する言い方を好みます。所有を言わないのに、身体を操作する。この組み合わせは英語には移しにくい。
逆方向も見ておくと、非対称はさらに見えてきます。日本語からこの表現を英語へ送ろうとすると、pant や gasp は音を伴う含意が強すぎ、out of breath は状態の記述に寄りすぎて動きが消える。日本語の側は「切らす」という動詞で、蓄えが尽きるという過程を含んでいるのに、英語の側にはその過程を一語で担う自然な動詞が見当たらない。結果として、訳文は一語対一語にならず、文全体の組み替えを要求されます。
この動詞が取る目的語を並べると、過程の含みはもっと見えてきます。醤油を切らす、在庫を切らす、しびれを切らす。どれも、あったはずの蓄えが底をつくまでの時間を含んでいて、尽きた瞬間ではなく、尽きるまでの経過のほうが語の中身になっている。英語の run out of が近いといえば近いのですが、日本語の側は他動詞なので、切らした当人に手落ちがあったかのような響きがかすかに乗ります。呼吸の場合、この響きは思わぬ効果を生む。走ったせいで足りなくなったという生理の事実に、自分で使い果たしたという含みが薄く重なるのです。自動詞に替えて息が切れると書けば、その含みは消え、出来事は本人の外側で起きたことになります。
持続の比喩にまで広げると、日英の距離はさらに開きます。日本語は呼吸を持続の単位として使う言語で、息の長い仕事、息が続かない、途中で息切れする、といった言い方がひととおりそろっている。しかもここでは、長い息が評価の高い側にあります。英語で長い息にあたる long-winded は、話が冗長で聞き手を疲れさせるという非難の語です。同じ身体の事実を持続の比喩に採りながら、一方は粘り強さへ、もう一方は聞き手の忍耐へ結びついた。訳語が見つからないのは、対応する語彙が欠けているからではなく、価値の向きが逆を向いているからです。評価の向きは、比喩の元になった身体の事実からは決まりません。走り終えた人の荒い呼吸を、まだ動ける証拠と見るか、限界が露呈したと見るか。その判断のほうが先にあって、言い回しは後から形を整えているように見えます。
こうした食い違いは、翻訳の不出来ではなく、語がどこに焦点を当てているかの指紋のようなものです。日本語のこの句は、尽きるという過程に焦点がある。英語は、ない状態に焦点がある。フランス語の題は、その果てという地点に焦点があった。書き手が実際に使えるのは、この焦点のほうです。走り終えた人物を書くとき、過程を書くのか、状態を書くのか、到達点を書くのか——三つは同じ光景の別の切り取り方であり、選んだ切り取り方が、そのまま場面の時間の長さになります。