八十歳の女性を評した文の中に「少女のような」という句を見つけて、読み飛ばしてしまったことがあります。詰まらなかった。年齢はまったく重なっていないのに、意味が通ってしまった。比喩とは似ているものを結ぶ操作だ、という説明では、この読み心地は説明できません。似ていないものが結ばれ、しかも自然に読めた。何かが運ばれて、何かが運ばれなかったということになります。
比喩を、二つの領域のあいだの構造の写像として捉える見方があります。レイコフとジョンソンが広めた概念メタファーの枠組みで、そこで繰り返し強調されるのは、写像が決して全面的ではないという点でした。源となる領域の一部だけが目標の領域へ運ばれ、残りは持ち込まれない。運ばれた部分より、運ばれなかった部分のほうが多い。この比率は、比喩がなぜ短いのに効くのかを説明します。読み手は、運ばれなかったものを勝手に消してくれる。
では、この句で運ばれているのは何なのか。年齢ではありません。体格でも髪型でもない。おそらく運ばれているのは、外からの刺激に対する反応が加工されずに出てくる状態です。驚けば驚いた顔になり、面白ければ先に声が出る。反応と表出のあいだに、社会的な計算の層が挟まっていない。八十歳の人がそういう笑い方をしたとき、この句が起動する。年齢が離れているほど落差が効くので、遠いことが障害にならないどころか、むしろ効果の源になります。
ここでもうひとつ気になることがあります。逆向きが成り立たない。老いた人を源にして若い人を形容する言い方は、同じようには使えません。使えなくはないが、そのときに運ばれるのは落ち着きや達観といった別の中身で、しかも褒め言葉として安定しない。写像には向きがある、というのは概念メタファーの研究でも繰り返し言われてきたことです。具体から抽象へ、身体から関係へ、そして時間については、後ろから前へは運びやすく、前から後ろへは運びにくい。過ぎた時期の性質を今の人に貼ることはできても、まだ来ていない時期の性質を貼るのは難しい。経験されたものだけが源になれる、ということなのでしょう。
ただ、この説明にはすぐ反論が立ちます。加工されない反応というだけなら、別の言い方でも足りるはずだ、と。実際、隣接する句とは交換できません。子どもを源にした言い方は未熟さの方向へ傾き、判断力の欠如を含んでしまう。この句にはそれがない代わりに、別のものがついてきます。可憐さ、庇護されるべきさ、外から眺められる対象であること——少女という語に社会が貼りつけてきた評価が、写像に紛れて一緒に運ばれる。書き手が運ぶつもりのなかったものが到着してしまう。手放しで使える比喩ではありません。
運ばれてくる評価は、書き手の世代感覚とも関係します。この句が褒め言葉として通用する範囲は、以前より狭くなっている。若さを価値の中心に置く枠組みそのものが疑われるようになったからで、同じ文が読者によって別の温度で届く状態になっています。写像の内容は変わっていないのに、写像の受け取られ方が変わった——比喩の寿命は、源の領域の社会的な位置が動くと縮みます。
だとすれば、使うときにできることは限定です。この句を置いたあと、何がそう見えたのかを一つだけ具体で示す。声の高さでも、湯呑みの持ち方でも、話の途中で急に窓の外を見たことでもいい。具体が一つ来ると、読み手の側の写像は自動的にそこへ収束します。限定は比喩を弱めません。写像の範囲をこちらが決めたという合図になる。運ばれるものを選べない比喩は、選ばなかった評価まで連れてくる。