六十歳をいくつか過ぎた男が、模型店の棚の前でしゃがみこんでいます。膝を抱えたまま、店員が声をかけても気づかない。この光景を文章にしようとすると、筆はほとんど自動的にひとつの比喩へ向かう。その自動性のほうが、書いている当人には引っかかります。なぜ人生のいちばん初めの段階が、それとはまったく違う年齢の人物を説明する材料になれるのでしょうか。目の前にいるのは明らかに子供ではなく、書き手も読み手もそれを承知している。それでも比喩は成立してしまうし、成立したことに誰も疑問を持たない。
認知言語学の側から見ると、比喩は文章の飾りではなく、考えるための枠組みだと説明されます。比喩には起点となる領域と、それによって理解される領域があり、前者から後者へ性質が写し取られると考える。ふつう起点になるのは、上下や容器や経路といった、身体で直接わかるものです。ところがこの表現の起点は人間そのもの、それも自分もかつて通過した段階である。人から人への写しなら、それは比喩というより比較ではないか。ここで一度、考えが止まります。
止まったところで見えてくるのは、写されているのが人ではなく、時間の上の位置だということです。人生を一本の経路と見る枠組みは日本語の中に深く入り込んでいて、先へ進む、道半ば、行き着く先、と言えば誰も引っかからない。その経路の、はるか後方にある地点。「ような」という言葉は、そこへ戻ったとは言っていません。後方の地点にあった性質だけが、距離を保ったまま現在に届いている——そう読ませるための緩衝材です。だからこの表現は、時間を空間として扱う枠組みに寄生することで、はじめて比喩になる。
緩衝材があるかないかの差は、幼いという一語と並べるとはっきりします。そちらは性質を直接その人に貼りつける形で、対象が本当に若いか、あるいは書き手がそう判定したことになる。こちらは判定を保留したまま、参照だけを行う。同じ内容を述べているようで、責任の所在が違う。年長の人物に前者を使えば書き手の評価が前に出ますが、後者なら評価は読者の側へ預けられる——引用符を付けて渡すのに近い。距離を保つ装置は、書き手が自分の立場を隠す装置でもあります。
もうひとつ、写しは全部を運ばない。同じ起点から「子供のような笑顔」と「子供のような残酷さ」の両方が取り出せます。この二つは性質としてほとんど正反対で、しかもどちらも自然に読める。どれを渡すかを決めているのは語ではなく、その前後に置かれた文です。逆に言えば、何も置かないままこの表現を使うと、読者はいちばん手垢のついた属性、つまり無邪気さを自動的に補ってしまう。比喩が働いていないのに働いた気がする状態は、こうして生まれます。
模型店の男に戻ります。膝を抱えていること、店員の声が届いていないこと、視線が棚の一段目から動かないこと。この三つを先に書いておけば、渡るのは無邪気さではなく、周囲が消えるほどの集中になる。並べる材料を変えれば、渡るものは頑固さにも、恐ろしさにも変わります。比喩の仕事は、その語を選ぶ瞬間ではなく、選ぶ手前の三行のほうで終わっている。