「女らしさ」とは言えます。「雨が降るらしさ」とは言えません。この一組を並べるだけで、同じ音を持つ二つの「らしい」が別物であることが分かります。片方は名詞に付いて形容詞を作る接尾辞、もう片方は推量を表す助動詞です。名詞化できるかどうかが、両者を分ける最も手早い判定になります。辞書の記述を読むより、この一つの操作のほうが速く境界を出す。
振る舞いの差は他にもあります。接尾辞のほうは形容詞と同じ活用をし、連用形「らしく」で副詞的に使え、連体修飾にも自由に入ります。「女らしく笑った」「女らしい仕草」はどちらも普通です。推量のほうは文末に立つのが基本で、「雨らしく降った」のような使い方はできません。接続にも違いがあり、推量の側は動詞や形容詞の言い切りの形を受けられますが、接尾辞の側は名詞にしか付きません。加えて推量の「らしい」は、話者が直接には確かめていないという証拠性の含みを持ちます。伝え聞きの気配がある。接尾辞のほうにはその含みがなく、話者は判定を自分で下しています。同じ音でありながら、位置も接続も、話者の関与の度合いも重ならない。
判定の道具は、まだ二本あります。ひとつは程度性です。「とても女らしい」も「女らしすぎる」も成立しますが、「とても雨が降るらしい」とは言えない。接尾辞のほうは形容詞として程度の目盛りを持ち、推量のほうは真偽の判断なので目盛りを持たないからです。もうひとつは否定の置き場所になります。接尾辞の側は「女らしくない」と、外側から否定できる。推量の側はそれができず、「雨が降るらしくない」ではなく「雨が降らないらしい」と、否定を内側へ押し込むほかありません。否定が語の外へ出られるかどうかで、二つはまた分かれる。名詞化、程度、否定——どの操作を通しても、同じ音の二つは別々の場所へ落ちていきます。これだけ操作を重ねて一度も一致しないなら、同じ語だと考える理由のほうが残りません。
意味の核も別です。接尾辞の側が表すのは、典型への合致です。ここで重要なのは、主語の属性と一致していなくてよいという点になります。「学者らしい学者」も「学者らしい高校生」も文法的に成立する。属性の一致を要求しないからこそ、この形は評価の道具として働きます。そして典型を誰が定めたのかを、この接尾辞は決して言いません——基準の出所を述べずに基準を適用できることが、この形の性能であり、同時に危うさです。興味深いのは「自分らしい」で、ここでは典型が個人ごとに立つことになり、外から適用できない構造になっている。同じ接尾辞が、基準を共有物にも私物にもできる。
生産的に働くこの接尾辞のわきには、固まってしまった層も残っています。わざとらしい、もっともらしい、みすぼらしい。語基のほうは名詞とは言いにくく、かつてはもっと広い範囲に付いていたことの痕跡だと考えられます。しかも意味がずれている。「わざとらしい」は「わざとの典型に合っている」ではなく、「わざとに見える」です。典型との照合ではなく、外見からの推定のほうへ滑っている。推量の助動詞に近い位置まで来ているとも言えますが、二つの「らしい」の関係をここから断定するのは無理でしょう。判定に使えるのは、現代語のなかで生産的に働いている側の振る舞いだけです。語彙として固まった形は、辞書の項目として一つずつ覚えるほかありません。
近い形と並べると、役割分担が見えます。「〜っぽい」は外見の類似を指し、規範を含みません。「〜めいた」は擬態に寄り、本物ではないという含みを残します。「〜的」は分類です。「女っぽい」と「女らしい」を入れ替えると評価の向きが変わるのはこのためで、前者は観察の報告に近く、後者は合格の判定に近い。しとやか、たおやか、嫋やかといった語も同じ層に見えますが、これらは状態そのものの描写であって、典型との照合を含みません。照合を含むかどうかが、この一群の中の断層です。
だから実作では、書き手がどちら側に立つかを決めておく必要があります。典型への照合を作品の判断として引き受けるなら地の文、人物の判断として扱うなら会話文か、その人物の内語です。規範そのものを主題にしたいなら、さらに一段の操作が効きます。誰かにこの語を口にさせ、言われた側の返事を書かないこと。沈黙は、照合が行われたことと、その照合が受け入れられなかったことを同時に示します。文法の非対称は、そのまま場面の設計に翻訳できる。