少年法は、二十歳に満たない者を「少年」と定義しています。そこに性別の区別はありません。条文の上では、十九歳の女性も少年です。この定義を読んだときの座りの悪さは、法律が日常語を捻じ曲げているからではなく、日常語の側が境界を持っていないからだ、と考えると腑に落ちます。法は範囲を定めなければ動かない。日常語のほうは、範囲を定めないまま何百年も使われてきた。
日常語の側で、この語がどう把握されているかを考えてみます。年齢の区間としてではありません。典型例として把握されている。カテゴリーは境界ではなく中心で認識されるというロッシュらの指摘は、この語にきれいに当てはまります。中心には十歳前後の男の子がいて、そこから遠ざかるにつれて所属の度合いが薄れていく。上端がどこで切れるかは、誰も決めていないし、決める必要もなかった。境界の曖昧さは欠陥ではなく、この種の語の通常の状態です。
ところが「〜のような」という枠に入れると、事情がまた変わります。比喩の枠は、語の意味をまるごと持ち込むのではなく、一部だけを前景に出す。この枠の中で前景化されるのは、年齢層ではありません。多くの場合、一つのことに没入して、それがどう見えるかを勘定に入れていない状態です。夢中さ、と言ってもいいのですが、外から見られていることを忘れている点が要になっている。だから、四十歳の男性が模型を組み立てている場面でこの句が使えて、しかも年齢の情報は少しも混入しない。
中心にある典型像そのものも、放っておくと動きます。この語は複合語をよく作る語で、少年野球、少年時代、少年向けといった結びつきが日常的に使われてきました。複合語は、その内部で語の意味を固定します。少年野球という語が広く通用しているあいだ、中心像には野球帽の年齢帯がとどまり続ける——語の意味を支えているのは、辞書の定義ではなく、その語が参加している他の語のほうだ、という言い方もできます。定義を書き換えても中心像は動かない。動くのは、複合語の顔ぶれが入れ替わったときです。
しかしこれも怪しい。「少年のような残酷さ」という言い方が成り立つからです。ここで前に出ているのは没入ではなく、結果への想像力の欠如でしょう。同じ枠に同じ語を入れているのに、後ろに置かれた名詞によって取り出される部分が変わっている。とすると、焦点は語の内部にあらかじめ用意されているのではなく、組み合わせのたびに決まっていることになります。意味の焦点は語の属性よりも、関係から生じます。この結論は、多義語の記述をやりにくくする代わりに、比喩がなぜ痩せないかを説明します。
実務上の帰結は単純です。この枠だけを置いても、読者に何が届くかは決まらない。書き手が意図した部分と、読者が取り出す部分がずれる余地が広く残る。焦点を定めるのは、後続の名詞か、直後の一文です。目をそう書いたのなら、その目が何を見ているかまで書く。模型でも、遠くの誰かでも、殴った相手の顔でもいい。見ている対象が決まった瞬間に、語のどの部分が持ち込まれたのかが確定します。比喩は、置いた時点ではまだ半分しか書かれていない。