古い形は「きらふ」です。末尾の「ふ」は、上代の日本語で反復や継続を表したとされる要素で、ならふ、あらそふ、うつろふ といった動詞にその痕跡が見える。この見方に従えば、語は「きら」と「ふ」に割れる。割れたところまでは順調でした。
問題は「きら」です。これが何なのか、確かなことは言えません。いくつかの説が唱えられてきましたが、どれも決定打には見えない。語源を調べていて気持ちがいいのは、分解が最後まで進んで底に着いたときですが、この語では途中で床が抜けます。そこで、いったん漢字の側から回り込むことにしました。
「嫌」は女偏に兼と書きます。兼は、複数のものを合わせ持つ形に由来するという説明が行われることがあり、そこから、心が二つに分かれて定まらない、すなわち疑う、という語義の筋道が語られてきました。この筋が正しいかどうかを判定する力は手元にありませんが、少なくとも「嫌疑」という熟語がその語義で生きているのは確かです。疑わしい、という意味が漢語の側に確実にある。
そう気づくと、順序が見えてきます。この漢字はまず「うたがわしい」を担っていて、「きらう」という読みは日本語の側から後で結びつけられた訓です。字と語は、別々の由来を持ったまま同居している。
似た例として、「機嫌」があります。仏教語の「譏嫌」——世間からのそしりときらわれ——に由来するという説が広く知られていて、もとは他人の目を気にすることを指した語でした。それが現在では、自分の内側の気分を指す。外から内へ、向きが反転している。同じ字を含む語が、これほど別方向に着地することがある。
ここまで並べてから、自分に一つ問いを向けておきます。語源は現在の使い方を説明するのか。答えは、ほとんど説明しない、です。今日この動詞を使う人が、疑いや世間のそしりを意識していることはまずない。由来の知識には、現在の語に対する拘束力がない。
それでも、たどった作業がまったく無駄だったとは思えませんでした。残ったのは、この動詞が今も他動詞であり続けているという事実です。感情を表す語のなかで、これは珍しい部類に入る。悲しむ、苦しむ、寂しがる。これらは対象を書かなくても文が立ちます。ところが、この動詞は対象を省くと宙に浮く。何を、誰を、と読者が待ってしまう。
さらに、受身の形が異様なほど自然に使われる点も見逃せません。嫌われる、という言い方は、嫌う側と嫌われる側の二点を同時に立てる。つまりこれは、内面の状態ではなく関係の名前です。心の中だけで完結させられない。
創作の実務に引き直すと、選択の基準はここにあります。人物の内面をぼかしたまま不快さだけを漂わせたい場面で、この動詞を使うと輪郭が出すぎる。誰が誰をどう位置づけているかが、一語で確定してしまう。逆に、確定させたい場面——関係が変わった瞬間、態度が言葉になった瞬間——では、これ以上に短く効く語は少ない。底が抜けたまま、使いどころだけは手に入りました。