形態素解析器に「読みにくい」を渡すと、末尾はきちんと接尾辞として切り出されます。書き分けが表記に現れているので、機械は迷いません。ただ、数える側の人間の方は少し迷う。動詞の連用形に付いて困難を表すあの形と、感情を表すこの形容詞が同じ根から出たとする説は昔から言われていますが、確かめる手立てを持っていないので、ここは複数の見方があるとだけ書いておきます。数え始める前に、何を同じものとして数えるかで結果が変わるという当たり前の壁に、まず突き当たる。
数えるとして、次に見たくなるのは前後に何が来るかです。直前に格助詞を伴う名詞が来る形が多いのは、予想を裏切りません。裏切られるのは、褒め言葉としての用法が確かに存在するという事実の方でした。心憎い配慮、憎いところを突く。感情の語がそのまま賛辞に転じている。語の頻度分布は、順位が下がるにつれて頻度が急に落ち、大部分の語が数回しか現れない長い裾を作ることが知られています。ひとつの語の中の用法も、似た形をしている。圧倒的に多い一つの読みと、裾に散らばる少数の読み。褒め言葉の方は明らかに裾の住人です。
派生形をどこまで数に入れるかでも景色が変わります。過去形、丁寧形、それに憎らしい、憎々しい、憎しみ。これらを一つの見出しにまとめれば量は増え、別々に立てれば一つひとつは小さくなる。単語を数えているつもりで、実際には自分の立てた分類を数えている。集計の前に置いた判断が結果の形を決めてしまうという事情は、語の調査に限らず、数える作業のほぼすべてに付いて回ります。ここで得られる数字は対象の性質というより、対象と観察者の間に引かれた線の性質です。
裾にあるものは目立ちます。だから使えば効く、と言いたくなるのですが、そこで立ち止まりました。稀であることと新しいことは同じではない。褒め言葉の用法は数こそ少ないものの、決まった言い回しとして固まっていて、組み合わせの自由がほとんどない。定型として固定した表現は、出現数が少なくても手垢がついている。頻度の低さは新鮮さを保証しないという、この当たり前の区別を、統計の形だけ眺めていると見落とします。
連なりの単位で見ると、もうひとつ性質が出てきます。この語は短い型の中に現れやすく、長い修飾を背負うと文の中で浮く。かつて自分を裏切り、家族まで巻き込んで逃げた憎い男、と書いてみると、修飾が重すぎて肝心の形容詞が押し潰される。感情を表す形容詞は、その一語で読者の感情を起動させることを期待されているので、起動する前に情報を積まれると働けない。修飾を前に置くなら、感情語ではなく行為の描写で受けた方が保つ。
相手を指す語との組み合わせにも偏りがあります。役職や属性を伴う名詞と結びついたときは説明的になり、固有名や代名詞と並んだときだけ体温が出る。憎い敵、はほとんど記号ですが、あの男が憎い、には話者の顔がある。抽象度の高い名詞を受けると感情語まで抽象に引きずられる、という現象は、頻度の話とは別の層にありますが、共起の統計を眺めているとかえって見えやすくなります。数えることの本当の効用は、順位表ではなく、順位表を作る途中で目に入る例文の方にあるのかもしれません。
数えることの効用は、その語が読者の頭のどのあたりに置かれているかを教えてくれる点にあります。日常でよく通る語は素通りされ、稀な語は読者を立ち止まらせる。憎しみを書く場面で必要なのは、たいてい後者ではありません。素通りされる語を素通りさせないための配置——前の一文で何を見せておくか、その語を文のどこで切るか——の方が効きます。頻度は、語の性能よりも、読者の慣れの度合いを測る目盛りになります。