熱いのか、冷たいのか。この感情については、どちらの言い方も成立してしまいます。腸が煮えくり返る、燃えるような憎しみ、という熱の側。冷たい憎しみ、冷え切った目、という氷の側。怒りの方はここまで揺れません。頭に血が上る、かっとなる、腹が煮える——ほぼ一方向に寄っている。英語で怒りが容器に入った熱い液体として捉えられているという指摘はよく知られていて、日本語の言い回しも同じ図式にきれいに乗ります。乗らないのは、憎しみの方だけです。
差がどこから来るのか考えて、時間の長さに行き当たりました。怒りは短い。圧力が上がり、限界を越えて噴き出し、収まる。容器の比喩は圧力の増減を扱うのに向いていて、始まりと終わりがある感情によく合う。憎しみは長い。年単位で持ち越されることを前提にした語です。長く続くものを熱で表すには燃料が要るので、燃やし続ける、という言い方が必要になる。同時に、火が消えた後の残り方も語彙化される。冷たい方の言い回しは、熱の比喩の否定ではなく、熱の比喩が時間に耐えた結果の形だと考えると、両立が説明できます。
温度以外の図式も並走しています。憎しみを抱く、恨みを抱える——持ち運ばれる荷物。重さがあり、置くことも捨てることもできる。恨みを晴らす、となると天候です。曇っていたものが晴れる。容器と荷物と空模様が、同じ感情の上で並行して使われていて、どれが本体か決められない。ここで少し疑いました。どれかが原型で残りが装飾だと言えないか。おそらく言えません。熱さ、重さ、視界の悪さという別々の身体経験が、それぞれ独立に写像されているだけで、統一された原型は最初からない。
身体の外から来るものとして捉える言い方もあります。毒を含んだ言葉、刺すような視線、目の敵にする。毒は内側へ入り込んで作用を続けるもの、刃は境界を破って断つもの、視線は距離を越えて相手に届くもの。いずれも、感情が持ち主の内部に収まらず、外へ働きかける形で捉えられている。容器の比喩が内圧を扱っていたのに対して、こちらは出口の側を扱っています。同じ感情が、抱え込まれるものとしても、放たれるものとしても言語化されていて、どちらの言い回しを選ぶかで、その人物が耐えているのか動き出しているのかが変わる。
面白いのは、動詞のままではこれらの図式がほとんど現れないことです。彼を憎んだ。素っ気ない一文で終わる。この形は目的語を取ってそこで完結し、重さも温度も持たない。比喩が集まるのは名詞になった後です。感情がいったん物として切り出されて初めて、容器にも荷物にも天候にもなれる。言い換えると、名詞形を使った時点で、その感情は本人からいくらか分離している。動詞のうちはまだ本人の行いの一部です。
この区別は、人物の内面を書くときにそのまま効きます。憎んだ、と書けば、その感情は行為に近く、まだ本人と一体になっている。憎しみを抱えていた、と書けば、それはすでに荷物であり、本人はその重さを自覚しているし、いつか下ろす可能性まで文の中に含まれてしまう。復讐に向かう人物を書くとき、どの段階で名詞形に切り替えるかは、その人物が自分の感情を対象として眺め始めた瞬間をどこに置くかという設計と、そっくり同じ問題です。