十回のうち九回、約束を守る人がいるとします。九割は、それ自体としては高い数字です。試験なら上位の成績ですし、機械の稼働率としても悪くない。にもかかわらず、その人をこの語で呼ぶことに、多くの人はためらいを覚えます。九割では足りない、という直感がどこから来るのか。答えは単純で、この語が平均を見ていないからです。ここで採点に使われているのは期待値ではない。
工学には、鎖の強さは最も弱い環で決まる、という言い方があります。全体の性能を、構成要素の平均ではなく最小値で評価する考え方です。誠実さも同じ形の量として扱われています。守られた九回は加点にならず、破られた一回だけが値を決める。だから「おおむね誠実」という言い方が座りにくく、程度を表す副詞と組み合わせにくい。平均で採点される量なら、七割の人と九割の人のあいだに連続的な差が並ぶはずですが、この語にその目盛りはありません。しきい値を下回った瞬間に、評価は別の語へ移ります。移った先の語には、たいてい戻る道が用意されていません。
最小値で採点する量には、時間に関する厄介な性質があります。対象の集合が大きくなると、最小値は下がるかそのままかのどちらかで、上がることはない。付き合いが長くなれば試行の回数は増え、増えた回数のぶんだけ、下振れを引く機会も増えます。この採点法のもとでは、評価は原理的に減る一方で、回復する経路が用意されていません。それでも人が実際には評価を戻すのは、集合そのものを取り直しているからでしょう。あれは昔の話だ、と線を引いて、直近の何回かだけを見る。許すという行為を式で書くとすれば、最小値の計算を変えるのではなく、最小値を取る範囲を決め直す操作になります。長い関係ほど、この線引きが繰り返されている。線を引き直す権限が誰にあるかは、また別の問題です。破った側が自分で引き直したとき、それは開き直りと呼ばれます。
平均が使えない理由は、目盛りの側からも説明できます。統計では、測った値を四つの水準に分けます。名前だけの区別、順序だけがある区別、間隔が等しい目盛り、原点まで定まった目盛り——この順に情報が増える。平均に意味があるのは、間隔が等しいところから先です。この語で人を測るとき、あの人のほうが誠実だ、という比較は成り立ちますが、二倍誠実だ、とは言えないし、二人のちょうど中間という点も置けない。順序はあるのに間隔がない。順序尺度で平均を計算するのが誤りだとされるのは、足し算そのものに意味がないからで、この語の扱いにくさもそこに根があります。並べることはできて、割ることはできない。順位は作れても平均点は出せない量が、人の評価にはいくつもあります。
もう少し細かく見るために、言葉と行いのあいだの隔たりを距離とみなしてみます。数学で距離と呼ばれるためには、同じものどうしなら零になること、どちらから測っても同じ値になること、そして遠回りが近道を下回らないこと——この三条件を満たす必要があります。三つめの条件を当てはめると、言葉と行いの隔たりは、言葉と本心の隔たりと、本心と行いの隔たりの和を超えない、と読めます。つまり、言ったことと実際にやったことがずれているとき、原因は必ず前半か後半のどちらかにある。本心を偽ったのか、本心どおりに動けなかったのか。人物造形の分岐がここで二つに割れます。前者は欺瞞、後者は弱さで、読者が抱く感情はまるで違う。
一貫性のほうも、関数の言葉で整理できます。関数とは、同じ入力に対して必ず同じ出力を返す対応のことです。相手が変われば答えが変わる人は、この意味で関数になっていません。ただし注意が要るのは、言い方を相手によって変えることは違反ではない、という点です。それは入力に「誰に対して」という引数が含まれているだけで、対応そのものは一意でありうる。無変化であることが誠実さなのではなく、変化の理由が入力として公開されていること。裏に隠された引数があるとき、人はそれを不誠実と呼びます。
物語に置くとき、この性質はそのまま設計に使えます。この種の人物が退屈に見えるのは、定数として書かれているからです。何を入れても同じ値を返す対応は、確かに一貫していますが、そこから物語は生まれません。必要なのは、定義域を広く取ることのほう。極端な入力——利害が反転する状況、証人が誰もいない場所、守れば別の誰かを失う条件——を与えたときに、それでも同じ規則で出力が決まるなら、その出力は劇的なものになります。一貫性は、試される入力を用意して初めて可視化される。