耳で聞く文章は、目で読む文章より修飾語に弱いと言われます。放送の原稿が一文を短く保ち、修飾語をなるべく述語の近くへ置くように書かれるのは、聞き手が係り受けを頭の中に長く預けておけないからです。読者なら視線を戻せますが、聞き手に戻る手段はありません。この制約を裏返すと、修飾語というものが読み手に何を要求しているのかが見えてきます。要求されているのは、述語が来るまで宙づりのまま待つことです。字幕の世界にも似た制約があり、一秒あたりに読める字数の上限が経験則として置かれていて、削る対象はまず修飾語から選ばれます。音でも字幕でも、真っ先に切られるのは同じ品詞なのです。待たされる時間は、拍で測れます。
「きびしく」は四拍です。動詞の前に置けば、その四拍ぶん、述語に届くまでの時間が延びる。「叱った」も四拍なので、あわせて八拍。日本語の文はふつう述語で意味が確定するので、連用修飾はすべて、確定を先送りする装置として働きます。先送りが続くあいだ、読者は宙づりの状態に置かれる。短い先送りは緊張になり、長すぎる先送りは失速になる。その境目に一般的な数値があるわけではありませんが、一つの述語に掛かる修飾を二つ重ねると急に息が続かなくなる感覚は、多くの書き手が共有していると思います。
計量文体論では、文の中で内容語が占める割合を語彙密度と呼びます。副詞は内容語に数えられる。つまりこの種の語を一つ足すごとに、その文の密度は上がる。密度の高い文は情報量が多い代わりに、読む速度が落ちます。連載小説のように一気に読み下される形式では、高密度の文を続けると場面の勢いが削がれ、逆に、周囲を軽くしておいた中の一文だけ密度を上げれば、その文が突出して見える。副詞の効き目は文単位では測れず、段落単位の配分ではじめて現れる量です。注意が要るのは、密度が上がるのは足した当の文だけではないという点でしょう。周囲との落差で読まれる以上、密度は一文の属性というより、並びの属性としてふるまいます。
位置の自由度も、分量と連動します。日本語の連用修飾語は動詞の直前でなくてもよい。「厳しく彼を叱った」「彼を厳しく叱った」——どちらも成立し、意味も大きくは変わりません。ただし修飾語と被修飾語の距離が離れるほど、係り先の決定は遅れる。短文中心の文体なら前置しても害はありませんが、一文が四十字を超えはじめると、前置された修飾語は係り受けの負荷として顔を出します。文長の分布が広い文章ほど、修飾語の置き場所に神経を使う必要が出てくる。
同じ形が、文を切る道具にもなります。「厳しく、しかし丁寧に説明した」のように読点で止める中止法では、連用形が修飾から接続へ役目を変える。ここで起きるのは、句点までの距離が倍近くに伸びることです。修飾語として使えば四拍ぶんの先送りで済むものが、接続へ回した途端、次の節が終わるまで確定が延びる。形容詞の連用形は修飾も接続も同じ形で担うため、書いている側は自分がどちらを使っているか自覚しにくい。一つの段落に中止法が三つ並べば、文の数は減っていないのに、一文あたりの長さだけが伸びていきます。この癖は、文長分布の平均値ではなく最大値のほうに出る。読点の打ち方も同じ問題に触れています。「厳しく、そして丁寧に」なら接続だと分かりますが、「厳しく、彼を叱った」では読点があっても修飾のままです。同じ記号が、後ろに何が続くかで役割を変える。書き手が読点で調節しているつもりのものは、たいてい読点ではなく後続の構造のほうです。
ここまで書いて、副詞を減らせという結論に流れかけていることに気づきます。実際、連用修飾を削って動詞そのものを強い語に置き換えよ、という助言は広く流通している。「厳しく言った」を「詰めた」にする類です。ただ、この置換はいつも等価ではない。強い動詞は、程度の情報を語彙の内側に固定してしまう。副詞を使えば、程度だけを独立して動かせる——同じ動詞のまま、場面ごとに強度を変えられます。可変にしておくか、固定して短くするか。削減は無条件の善ではなく、可変性との取引だった、と言い直すべきでしょう。
実務としては、数えてみるのが早い。ある章の中で連用修飾を何回使ったか、そのうち何回が同じ拍数かを見る。四拍の語は口に馴染むので、意識していないと反復されやすい。そして反復は、密度ではなくリズムの問題として表面化します。同じ拍数の修飾語が三度続くと、文章はにわかに説教くさくなる。内容ではなく、拍の等間隔が説き聞かせの音型に似てくるからでしょう。直すときには、語彙よりも拍に手を入れるべきです。