原稿の画面で、この語だけが黒く見えることがあります。漢字が二つ続いて、そのあとに送り仮名が二字ぶら下がる。前後がひらがなの多い文だと、そこだけ濃度が上がって、行の途中に小さな塊ができる。語義と字面がこれほど揃っている語は、そう多くありません。まず表記の選択について。「かたい」には、常用漢字表のなかに堅・固・硬という三つの当て方があります。文化審議会がまとめた「異字同訓」の漢字の使い分け例では、それぞれに目安が示されていて、おおむね、堅は中身が詰まっていて壊れにくいこと、固は結びつきが強く変わらないこと、硬は外から力を加えても形が変わらないこと、と説明されます。堅実、固辞、硬球。並べてみると、たしかに手触りが違う。
それなら、雰囲気の話をしているこの語はどうか。表情や場の空気が張っている状態なら、外力に対して変形しないという意味の「硬」でも通りそうです。実際「硬い表情」「空気が硬い」とは書く。にもかかわらず、この形容詞は堅で固定されている。ここで、目安が説明するのは字の選び方であって語の由来ではない、という当たり前のことに引き戻されます。表記の固定は意味の必然ではなく、長い慣用が沈殿した結果です。
沈殿した以上、動かしにくい。けれど動かせないわけでもない。同じ語を全部ひらがなで書くと、印象がはっきり変わります。かたくるしい。六字ぶんの仮名が横に伸びて、塊が消える。意味は同じなのに、文の温度が一段下がる——というより、下がったように見える。読者は語義を読む前に、行の見た目を先に受け取っているからです。
ただし、開くことには代価もあります。日本語は分かち書きをしません。語の切れ目を読者に知らせているのは、漢字と仮名が交替する場所そのものです。漢字の島が現れるたびに、そこが自立語の頭だと分かる。全部を仮名に開いた行では、この道しるべが消えます。かたくるしいあいさつ、と仮名だけを続けて書けば、どこで切れるかを読者が自分で決めなければならない。温度は下がりますが、読む速度も一緒に落ちる。つまり開くか閉じるかの判断は、その一語だけの問題ではなく、前後にどれだけ仮名が並んでいるかで決まります。仮名の海に仮名を足せば沈む。漢字の詰まった行に一語だけ開けば、そこが呼吸になる。同じ表記が、置かれる行によって逆の効果を持つということです。
このことは、会話文でとくに効きます。畏まった上司が漢字で書かれた一語を口にするのと、気心の知れた友人が仮名でそれを言うのとでは、同じ台詞が別の人物のものに聞こえる。表記は発音を写す道具ですが、日本語では同時に、話者の階層や場の格式を演じる衣装でもある。書き手はそこを操作できる立場にいます。ただし、操作しすぎると別の問題が出ます。一つの作品のなかで同じ語の表記が揺れると、読者はその揺れ自体に意味を探し始める。探しても何も見つからないと、今度は原稿の精度を疑い始める。だから開くか閉じるかは、思いつきではなく方針として決めておく必要がある。
同じ場面に置ける語を、字面の濃度で並べてみると、方針を立てる目盛りが見えてきます。窮屈は漢字二字だけで、仮名を一字も連れていない。この形容詞は漢字二字に仮名が二字。改まったは漢字一字に仮名が三字。かしこまったは、漢字を当てられなくはありませんが、まず仮名で書きます。黒から白まで、四段の階調がすでに用意されているわけです。意味の差だけを見て語を選ぶと、この階調は無視される。逆に、階調を先に決めてから語を選ぶ書き手もいます。硬質な三人称でひらがなの多い語を選び続ければ、文体は柔らかいまま距離を保てる。字面は、意味の下請けではなく、独立した一本の変数として動かせます。もっとも、四段の階調はどれも同じ場面に使えるわけではありません。窮屈は身体にも空間にも掛かりますが、この形容詞が掛かるのは場と作法のほうに偏る。濃度と意味は、完全には独立していない。
もう一点、こまかい話を足しておきます。この語は送り仮名を「しい」まで送ります。形容詞の活用語尾を残す原則に沿った形で、堅・苦という二つの漢字は語幹だけを担っている。つまり画面上の黒い塊は語幹であり、そのあとに続く二字の仮名が、活用というやわらかい部分を引き受けている。硬い核と、伸び縮みする尾。表記の構造が、この語の中身をそのまま図にしているようにも見えます。図として見えてしまうところまで含めて、この語の使いどころだと考えています。