会議室に二枚の議事録が置かれています。「さきの会議で決めた件」と言われたとき、聞き手は多くの場合、現在の会議より前に開かれた一方を選びます。しかし、それが昨日か先月かは、この連体表現だけでは決まりません。発話の時点をゼロとするなら、過去方向にある出来事を指し、その候補から文脈上もっとも目立つものを取り出す働きです。時刻を測る表現ではなく、談話の中にある資料へ札を付ける表現——だから「三日前の」のような正確さがなくても、共同の記憶があれば通じます。ここで「さき」は、空間の前方にも時間の以前にも伸びる語です。未来を「この先」と呼ぶ一方、過去を「先ほど」と呼ぶため、時間軸の向きだけでは意味を決められません。
文法上は、後ろの名詞を直接修飾する連体の形です。ただし、ひらがなで同じ「さきの」と書いても、構造は一つではありません。「さきの会談」なら全体で「以前の」に近いのに対し、「鉛筆のさきの形」では「さき」が物の末端を表す名詞で、続く「の」が別の名詞へ関係を結びます。「さきの尖った鉛筆」なら、さらに「さきの尖った」が連体修飾節となります。文字列が同じでも、どこで語を区切り、何が何を修飾するかが異なるのです。読み手は語順だけでなく、名詞同士の意味的な相性から構造を選びます。
この表現が興味深いのは、過去を指すのに過去形を必要としない点です。「さきの知らせは誤りだ」では、知らせが届いたのは以前でも、誤りだという判断は現在に置けます。時間を担うのは述語「だ」ではなく、名詞句の内部にある修飾語です。また、「さきの国王」のような例では、先代という地位の順序を示す読みと、先ほど話題にした国王を再び指す読みが競合しえます。前後の一文がなければ確定しない。文法は形を用意しますが、参照先の決定は談話に委ねられています。さらに「さきの決定を撤回した」の名詞句は、文中で目的語になります。連体修飾は名詞句の内側にあり、その名詞句が主語や目的語になる働きとは別の階層にあります。この入れ子を意識すると、係り先を見失いにくくなります。
類似表現は、同じ過去を違う幅で切ります。「今しがたの」は発話直前へ強く寄り、「過日の」は日を隔てた出来事に似合い、「去る」は公的な報告や改まった文章で日付を導きやすくなります。「前の」は時間だけでなく、列や位置の前方も表せます。それに比べると「さきの」は、直前から歴史上の時期まで伸びうる一方、話し手がすでに共有済みだと見なす対象を選びやすい語です。古い出来事だから使うのではなく、談話上「例のもの」として再提示できるかどうかが重要になります。
小説では、この共有済みという含みを情報管理に使えます。冒頭で「さきの事故」とだけ書けば、登場人物には既知だが読者には未知という差が生まれ、説明を保留できます。反対に、事故が二件ある章で無造作に置けば、どちらを指すのか混乱させるでしょう。固有名、日付、直前の言及など、候補を一つに絞る手掛かりが要ります。示したいのが単なる過去なら「前の」、直近性なら「先程の」、共同記憶まで含めるなら「さきの」を選ぶことになります。後ろに名詞を一つ従える短い形ですが、その名詞を現在の会話へ呼び戻す文法的な時差を持っています。