変換候補の並び順が入れ替わったせいで、「店を再会する」という一行が世に出てしまうことがあります。誤りだと分かるのは字を見たときで、読み上げてしまえば区別がつきません。音では同じものが、字では別物になっている。この当たり前の事実を、日本語で書く人は毎日利用しているのに、利用していること自体は普段まったく意識しない。表記が意味の弁別を丸ごと担っているという構造は、この語のまわりでとりわけ露骨に出ます。同音の相手が日常的な業務用語だというのが、事故の起きやすさを決めている。
そこから一歩進むと、弁別ではない仕事をしている表記が見えてきます。めぐりあうと書くとき、巡り合う・巡り会う・巡り逢うの三つが候補に並ぶ。意味の区別はほとんどありません。にもかかわらず選択が生じるのは、字が別種の情報を運んでいるからです。逢は常用漢字表に入っていない。公用文や新聞では原則として使われず、学校でも習わない。その制度上の位置が、この字に私的な文章の匂いを与えている。恋愛の場面でだけ現れる字だという感覚は、字義から来たのではなく、字がどこに現れないかから来ている。情感の一部を、国語施策が作ったことになります。
同じ「あう」でも、字が意味そのものを分けている場合があります。事故に遭う、にわか雨に遭う。この字が来た時点で、出来事は望まないものに決まる。遭難や遭遇といった熟語の顔つきからも分かるとおり、こちらは弁別に働いていて、書き手の気分で置き替えられるものではありません。一つの語の表記候補のなかに、意味を分ける字と分けない字が同居しているわけです。逢を選ぶかどうかは文体の判断ですが、遭を選ぶかどうかは事実の判断になる。しかも常用漢字表の内と外という線引きは、この二つの働きと一致しません。遭は表内にありながら弁別を担い続けている。表記の仕事は一枚岩ではないのです。
表外字がふたつ並ぶ邂逅は、さらに極端な例でしょう。読めるが書けない語、という層に属している。ここで媒体の話が入ってきます。紙の書籍で振り仮名を付けるかどうかは組版と紙面の判断でしたが、ウェブで連載する場合、ルビを振る負担は紙よりずっと軽い。読めない字を出すコストが下がると、選べる表記の範囲そのものが広がります。表記史は明治の仮名遣い改定や戦後の当用漢字表で終わった話ではなく、配信の技術が変わるたびに現在も動いている。そう考えると、いま自分がしている表記の選択も、後から見れば時代の痕跡として読まれるのでしょう。
語種によって、選べる幅そのものが違うという事情もあります。和語の複合動詞なら、どの字を当てるか、送り仮名をどこまで送るかで、書き方は何通りにも枝分かれする。ところが二字漢語にサ変の「する」を付けた形には、その自由がほとんどありません。漢字二字は固定で、送るべき仮名も残っていない。この形に決めた時点で、字面による微調整の余地は消えています。裏返せば、それは距離の操作を表記から取り上げ、語彙そのものに仕事を任せる選択でもある。要約的な地の文や、事務的な報告の文でこの形が選ばれやすいのは、そのせいかもしれません。手触りを字で作りたい場面では、書き手はたいてい和語の側へ手を伸ばします。
ただし、ここで自分の観察を疑っておきます。逢と会の差に情感があるというのは、書き手だけの思い込みではないか。読者はその差にどれだけ気づくのか。単発で置かれた一字に気づく読者は、おそらく少数です。振り仮名の有無も、読み流されればそれまで。書き手が三十秒迷って決めたことが、読者の側では〇・一秒も滞留せずに通過している。校正の現場でも、字の統一は品質の問題として扱われこそすれ、情感の問題として議論されることはまずありません。受け取られたかどうかを確かめる手立ても、書き手の側には用意されていない。この反論はかなり強い。
それでも観察が完全には潰れないのは、表記が単発ではなく分布で働くからです。一作を通して会うを基本形に据え、特定の人物との場面でだけ逢うを使う。読者はその都度は意識しなくても、二十話も読み進めれば、ある相手の場面に固有の手触りがあることを感じ取る。効いているのは一字ではなく、一字の出現パターンの方です。だから決めるべきは字ではなく規則になります。基本形を何にするか、例外を何回まで、どの条件で許すか。送り仮名も同じで、決めた規則を最後まで守り切れるかどうかが、字そのものの選択より結果を左右します。