日本語のうつは、漢字を変えるたびに行為の種類が分岐する。打つは接触と打撃、討つは討伐と制裁、撃つは発射と射撃——音は同じでも、字源と用法の歴史が別の動詞を同居させている。この字は、もともと攻撃・打撃の意味を持つ漢字が、近代以降の銃砲の文脈で射撃義を強く引き受けた例として整理できる。語源を一つに断定するより、和語の広いうつに、漢字が役割分担を後から載せた、と見る方が安全だ。字が後から来て、意味の仕切りを作った、と言ってもよい。
字の側の履歴をたどると、銃と結びついたのが新しい層であることが見えてくる。熟語を並べれば、攻撃・撃退・撃破・打撃。どれも飛び道具を前提にしていない。目撃にいたっては見ることを指し、そこに弾は一発も飛んでいない。字義の核にあるのは強く当てる・打ち払うという打撃の観念であって、射撃はその特殊化にすぎない。和語のうつが広かったのと同じように、漢字の側ももとは広かった。狭くしたのは近代の兵器と、それを報じる文章の習慣である。字が狭くなる過程は、辞書の記述より先に、新聞と軍事の文書のなかで進んだと考えられる。
字の成り立ちとしては、攻撃・撃破に関わる形声・会意の説明が辞書に並ぶ。細部の字源説は複数ありうるが、創作に必要なのは細部の確定より、現代日本語での棲み分けである。殴る行為にこの字を使うと違和感が出る。銃や矢、砲のような距離を隔てた攻撃へ寄る。剣戟の時代の用例と、近代兵器の用例では、同じ字でも想像される軌道が違う。軌道が飛ぶもの——弾、矢、光線——であるほど、この表記が自然に感じられる。飛ぶ軌道が見えない武器では、字の選択がジャンルの約束事に近づく。
同音語との衝突は、表記選択の実務そのものだ。会話で撃ったと聞こえても、地の文で打ったと書くと意味がすり替わる。音声媒体では文脈が救済し、文字媒体では漢字が救済する。ウェブ小説のように漢字表記が標準の媒体では、作者の字選択がほぼ唯一の曖昧性解消手段になる。だからこそ、武器の種類が曖昧な場面では、字を先に決めてから描写を組み立てる必要がある。字が決まれば、薬莢、弦、火花といった必要な小道具の集合も決まる。小道具が先に揃うと、動詞は結果として自然に決まることもある。
常用漢字表は、打・討・撃の三字いずれにもうつという訓を認めている。同じ訓を三字が分け合う状態は、辞書の側から見れば冗長だが、書き手から見れば選択肢である。ただし選択肢は無料ではない。読者は字を見て武器を推定し、推定を裏切られた瞬間に一度立ち止まる。素手の殴り合いにこの字を当てれば、読者の頭には存在しない銃が一瞬だけ映る。漢字表記は情報を意味より先に出してしまう。その先出しをどこで許し、どこで抑えるかを決めることが、字選びの実務にあたる。裏を返せば、武器を明かしたくない場面では、字の側から情報が漏れないよう、うつではない動詞へ逃がす判断も要る。放つ、引き金を引く、振り抜く。動詞を替えるのは遠回りに見えて、字による先出しを止める最短の手段になる。
文学史的には、戦記・捕物・現代の犯罪もの・SFで使用頻度が跳ねる。日常語としては出現が偏り、偏り自体がジャンル信号になる。語源の知識をひけらかす必要はないが、うつの漢字ファミリーを混用しない、という最低限の規律は効く。討つを道徳的制裁、打つを身体接触、撃つを発射へ寄せる。その三角測量だけで、文の暴力の種類が読者に届く。音が同じ語ほど、字が意味の安全装置になる。安全装置を一度外すと、暴力の質が読者の頭の中で混線する。