全く

【まったく】副詞

使い分けの視点

「全く」は例外のなさを示すだけでなく、「全く違う」「全く分からない」のように話者の評価や思考の限界を強めます。「まるきり」は口語的、「余すところなく」は網羅を丁寧に示し、「正真正銘」は真偽を断定します。厳密な全称か、感情的な強調かを場面で見分けます。

同義語

同品詞の類義語

本当に
実に文芸的
まるきりcolloquial
純然と文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

余すところなく文芸的
一から十までcolloquial
何から何までcolloquial

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

本当のところ
まったくの
正真正銘文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

全く分からないと匙を置くエッセイ関連

例文: 暗号を三晩調べた錬金術師は、全く分からないと匙を置く。

ほとんど至るところ、と、全部

解析学には「ほとんど至るところ」という言い回しがあります。例外となる点の集合の測度が零であれば、その例外は無視してよい、という約束のもとで使われる語です。全ての点で成り立つことと、ほとんど全ての点で成り立つことは違う。違うからこそ、両者を書き分ける専用の語が用意されました。数学が神経質なのではなく、区別しないと定理が壊れる場面が実際にあるということです。

確率にも同じ区別があります。ほとんど確実に、と訳される言い方は、確率が一であることを意味しますが、確率一は「起こらない場合が存在しない」ことを意味しません。区間から一点を無作為に選ぶとき、その点が特定の一点に一致しない確率は一です。それでも一致する場合は考えうる。零と不可能、一と必然が一致しないというのは、日常の感覚からは離れた事実で、慣れるまで居心地が悪い——それでも区別を維持するのは、維持しないと計算が合わなくなるからです。

日常語のほうは事情が違います。全く違う、と言うとき、話し手は全ての属性が異なると主張してはいません。重要な点で大きく違う、という程度の意味で使われ、全称の形をとりながら実際には強調として働いています。この二重性は否定と組んだときに強く出ます。全く分からない、は理解度が零だという報告ではなく、理解しようとする作業を打ち切ったという宣言に近い。量化の語が態度の語に転じる瞬間です。

否定と組んだときの、もう一段細かい話をしておきます。全称と否定は、どちらが外側に来るかで意味が変わる。すべての点で成り立たない、と、すべての点で成り立つわけではない、は別の主張です。数学の記法はこの順序を記号の並びで固定しますが、日本語は語順と助詞に預けています。だから「全部食べなかった」は、ひと口も食べなかったとも、残したものがあるとも読める。ところがこの副詞が前に立つと、読みは片方へ絞られます。まったく食べなかった、に部分否定の解釈は入りません。強調へ薄れたはずの語が、否定をどこまで届かせるかという一点だけは手放していない。論理的な性質を一つだけ持ち帰った強調語だ、と言い換えてもいい。隣の副詞と並べると、この固さがよく見えます。「全然」は否定と組む語として説明されることが多いものの、肯定に付いた例は明治期の文章にも見え、現在の口語でも珍しくありません。否定との結びつきが揺れている語がある一方で、こちらは否定の届く範囲を譲らない。同じ強調の役目を引き受けながら、二つの副詞はまったく別の道を歩いてきました。

全く同じ、という言い方には別種の省略があります。数学で二つの対象が同じかどうかを問うときは、必ずどの同値関係のもとでかを指定します。数として等しいのか、集合として等しいのか、構造として同型なのか。指定を欠いた同一性の主張は意味を持ちません。日常語はこの指定を丸ごと文脈に預けています。二枚の写真が全く同じだ、という文は、画素の並びが一致するという意味にも、写っているものが同じという意味にも読める。どちらで読むかは、その直前に何が書かれていたかで決まります。同じ問題は、計算機に数を扱わせるときにも顔を出します。浮動小数点では、〇・一と〇・二を足した値が〇・三と一致しません。二進法で表しきれない小数を丸めているためで、これは故障ではなく仕様です。そこで数値計算の現場では等号をそのまま書かず、差の絶対値が十分小さければ等しいとみなす、という判定を置く。どこまで近ければ同一と呼ぶかを、人間が先に決めているわけです。

肯定に付く用法もあります。全くそのとおりです、は同意の強調で、ここには量化の意味がほとんど残っていません。副詞が否定と結びつく度合いは時代によって動くもので、「とても」が古くは「とてもかなわない」のように打ち消しとだけ組んでいたのに、大正期以降は肯定の程度副詞として広く使われるようになったのも、同じ流れの中にあります。現在のこの語は、否定側では量化の残り香を保ち、肯定側ではほぼ純粋な強調として働きます。一つの語の中に、二つの用法が別々の速度で残っている状態です。

人物の台詞にこの語を置くと、その人が世界をどのくらい粗く区切っているかが出ます。繰り返す人物は、程度の中間を言葉にしない人物として読まれる。逆に、ふだん中間を細かく刻む人物にこれを言わせるなら、そこが感情の限界だったという合図になります。強調語の使用頻度は、性格の説明より速く読者に届きます。

文: hakadoru.ai 編集部

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