数学の証明を読んでいると、「実際、」で始まる一文によく出会います。直前に述べたことを、具体的に確かめてみせる箇所です。この一文は、論理だけを見れば無くてもかまわない。すでに示されたことから出てくるのだから、新しい前提を足しているわけではないからです。それでも書かれるし、消すと読みにくくなる。論理的に不要なものが、読み物としては必要になっている。日本語の接続詞用法も、ちょうど同じ位置に立ちます。
情報が確信を動かす仕組みを厳密に言うと、こうなります。ある事柄を観測して主張への確信が上がるのは、その事柄が、主張が偽であれば起こりにくい場合です。主張が正しくても偽でも同じくらい起こることなら、いくら並べても確信は動かない。まして、読み手がすでに受け入れている事柄をもう一度述べるのは、起こることが分かりきった出来事の再確認にすぎません。急所はここにあります。直前の断定を読者が受け入れた時点で、その断定から当然出てくる事柄は、読者の中でもう起きてしまっている。後から差し出しても遅い。
では何を置けばよいか。条件は、直前の主張から論理的に導かれるわけではないのに、その主張が正しい場合には起こりやすい事柄であること。「彼は約束を守らない男だった。事実、その夜も現れなかった」は、その夜の不在が性格から演繹されるわけではないので、証拠として働きます。一方「彼は約束を守らない男だった。事実、約束は守られなかった」は言い直しにすぎない。同じ接続でも、後者は文字数だけ増えて確信を増やしません——読者が退屈するのは意味が薄いからではなく、更新が起きないからだ、と考えると直しどころははっきりします。足すべきなのは強い言葉ではなく、独立した観測のほうです。
一例を挙げるという操作には、数学の側から見ると決まった非対称があります。「すべての〜は…である」という形の主張は、反例がひとつ出れば倒れますが、実例をいくつ並べても証明には届きません。逆に「〜であるような場合がある」という形の主張なら、一例で証明が終わる。挙げるという行為は、否定のためには決定的で、肯定のためには決して決定的になれないわけです。この接続詞の後ろに置かれる一文は、たいてい後者の格好をしています。その夜に現れなかったという一件は、人柄についての全称的な断定を証明しはしません。だからこの一文が引き受けているのは、証明ではなく、確信の目盛りを動かすことのほうだと分かる。証明と、確信の更新は、そもそも別の作業です。
ただ、この見方だけでは説明できない用法もあります。読者がすでに納得しているところへあえて置いて、文のリズムを作る書き方。ここでの働きは証拠ではなく、視点を切り替える合図です。一般論から個別の場面へ降りる階段として使われている。確からしさが増えなくても、書かれた順序が読み手の注意を動かす。証拠と合図は同じ語形の別の仕事だと分けたほうが、整理はつきます。分けた上で、自分がいまどちらを使っているかを意識しておけば、証拠のつもりで合図を書いてしまう事故は減る。
証拠を二つ並べる場合には、もう一つ条件が付きます。確率論の独立性は、両方が同時に起こる確率が、それぞれの確率の積に等しいことと定義されます。片方が起きたと知らされても、もう片方の見込みが変わらない状態です。約束を破った件を二つ挙げても、それが同じ一日の出来事なら、二つ目はほとんど新しい情報を運びません。片方を知った時点で、もう片方はかなりの確度で予想がついてしまうからです。効いてくるのは並べた数ではなく、並べたものの間の距離のほうです。同じ人物の同じ癖を三度書いても、読者の確信が三倍になることはない。目盛りが一度動いたあとの二度目は、振れ幅がずっと小さくなります。距離を作るのは、書き手が選ぶ場面のほうです。別の年、別の相手、別の種類の約束。同じ性格から出た振る舞いでも、条件が離れているほど、二つ目が運ぶ情報は増えます。
使い分けの目安は、後続の文を消してみることです。消しても意味が痩せなければ、それは言い直しで、消せば済む。消すと直前の主張が宙に浮くなら、その一文は独立した観測を運んでいます。地の文で連発すると急に説得調に聞こえるのは、読み手が毎回この検算を無意識にやっていて、空振りが続くと気づくからかもしれません。証拠を積み増しても、主張から独立していない観測を並べているかぎり、目盛りはそこから動きません。