真実

【しんじつ】名詞

使い分けの視点

「事実」は記録や証拠で確かめられる出来事、「実相」は表面の奥にある全体像を指します。「本当のところ」は語り手の推量や内情にもなじみます。推理では検証できる層と、動機や経緯を束ねた「真実」の層を分けると、対立の焦点が鮮明になります。

同義語

同品詞の類義語

事実
実相文芸的
本当のところcolloquial
本当colloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

本当の姿
実際のところ

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

裸のような
鏡に映るような文芸的
白日のもとのような文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

明らかになる
暴かれる

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

ありのまま
飾らぬ事実文芸的
偽りなき姿文芸的

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

検証できる事実エッセイ関連

例文: 探偵は推測を脇へ置き、映像と時刻表で検証できる事実だけを白板に並べた。

三重に囲まれた言葉——法廷の宣誓文が示すもの

日本の法廷で証人が読み上げる宣誓書には、良心に従って述べること、何事も隠さないこと、偽りを述べないこと、という趣旨の文言が並びます。読み上げてみると、同じことを三回言っているように聞こえる。ところが実務上、この三つはそれぞれ別の失敗を封じています。黙ること、飾ること、そして事実でないことを言うこと。近代の司法制度は、ひとつの語をこれだけ厳重に囲わないと信用できなかった。囲われた側の語が何だったのかを見ておくと、この語の来歴が見えてきます。

もともとは仏典由来の語彙として、かなり古くから使われてきた言葉です。そこでの対立軸は虚妄であり、問題になっていたのは外界の出来事の正確さではなく、迷いの晴れた認識のほうでした。つまり主語は人間の側にある。何が起きたかではなく、その人がどこまで見えているか。この用法は近世まで宗教的な文脈で生き続けたと考えられています。少なくとも、証拠と照合して確かめる種類の語ではなかった。

近代に入って、事情が変わります。西洋の学術用語を訳し分ける作業のなかで、哲学が扱う普遍的な命題の側には別の漢語が割り当てられ、法廷と報道と日常が使う側にこの語が残った——役割分担は一気に決まったわけではなく、明治から大正にかけて徐々に固まっていったと見られています。同じ時期に、速記術が議会と裁判の記録を変え、新聞が全国規模で流通し、写真が出来事の証拠として通用するようになりました。何が起きたかを機械的に固定できる技術が揃うと、逆に「機械には写らない部分」を名指す語が必要になる。

制度の側は、さらに踏み込んだ扱いをします。名誉毀損をめぐる日本の刑法には、公共の利害に関する事実について、それが真実であることが証明された場合には罰しない、という趣旨の規定が置かれています。ここでこの語は、心境でも信念でもなく、法廷で立証すべき対象になっている。証明の成否によって、同じ発言が犯罪にもそうでないものにもなる。仏典が虚妄との対立で使っていた語が、千数百年を経て、挙証責任という手続き的な概念と結びついた——語の来歴として、これはかなり大きな移動です。

そこで生まれたのが、事実との分業です。事実は検証の対象になり、複数の人間が同じ手続きで確かめられるものになりました。証言、記録、写真、数値。一方でこの語は、検証しきれない部分を引き受ける側に回ります。動機、経緯、当人にしか分からない事情。報道が真相究明という言い方をするとき、求められているのは追加の証拠だけではなく、断片をつなぐ筋書きのほうです。だから同じ出来事について、事実は一組しかないのに、この語のほうは複数あり得るという奇妙な事態が起こる。

小説にとって、この分業はそのまま構造の材料になります。事実は登場人物全員が共有できるが、それをどう束ねるかは各人で違う。裁判ものや回想ものが繰り返し扱ってきたのは、証拠の不足ではなく束ね方の衝突でした。書き手が決めるのは、どちらの層で対立を起こすかです。証拠の層で争わせれば推理の物語になり、束ね方の層で争わせれば和解しない物語になる。法廷の宣誓文がわざわざ三つの禁止を並べたのは、この二層の境目で人が最も器用に嘘をつけるからでしょう。

文: hakadoru.ai 編集部

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