ある
【ある】連体詞使い分けの視点
連体詞のあるは存在だけを主張して中身を空欄のまま置く語で、その空欄には語り手が素性を知っていて伏せている気配が漂います。とあるは口語的で軽い読み物の幕開きに馴染み、さるは雅で、身分ある対象をぼかす含みを持ちます。名指さないという選択は名指すよりも多くの設計を要求するので、なぜ伏せるのか、いつ明かすのかの答えを持ってから置くと安定します。
同義語
同品詞の類義語
類義句
同品詞の慣用的言い換え
婉曲・強調変換
ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)
連体詞のあるは存在だけを主張して中身を空欄のまま置く語で、その空欄には語り手が素性を知っていて伏せている気配が漂います。とあるは口語的で軽い読み物の幕開きに馴染み、さるは雅で、身分ある対象をぼかす含みを持ちます。名指さないという選択は名指すよりも多くの設計を要求するので、なぜ伏せるのか、いつ明かすのかの答えを持ってから置くと安定します。
同品詞の類義語
同品詞の慣用的言い換え
ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)
下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。
例文: 或る朝、郵便受けに見覚えのない封筒が入っていた。消印は雨に滲んでいる。
例文: 「ある意味では正解です」と彼は答えを二重に伏せた。
有島武郎は長編に『或る女』と題し、芥川龍之介は遺稿に『或阿呆の一生』と題しました。固有名を持つ人物の物語に、あえて不特定の冠を被せる。この一語(表記は「或る」「或」と揺れます)が題名で果たしている仕事は、特定の誰かの話を「どこにでもいる一人」の話へ押し広げることです。連体詞「ある」は、日本語で最も小さな距離調節装置と言っていい。
品詞論の上では、この語は動詞「あり」の連体形が固まって連体詞になったものと説明されます。成り立ちを踏まえると、その仕事の最小性がよく見えます。「男」に被せたとき、この語が保証しているのは「そういう男が存在する」ことだけで、名も、素性も、外見も、一切の属性を保留している。存在だけを主張して中身を空欄にしておく——修飾語でありながら情報をほとんど足さない、奇妙な修飾です。「名もなき男」との違いも、ここにあります。あちらは名が失われていることを積極的に述べる修飾で、こちらは何も述べない。空欄と欠落は、似て非なるものです。
そして、その空欄は無色ではありません。日本語には英語の a や the にあたる冠詞がなく、ふだんは裸の名詞で済ませます。だからこそ、わざわざこの連体詞を付けるのは有標の選択になる。「男が訪ねてきた」と「ある男が訪ねてきた」を比べると、後者には、語り手がその男の素性を知っていて伏せている気配が漂います。言語学の用語を借りれば、不定でありながら特定的——語り手の頭の中では指示対象が定まっているのに、読者にはまだ渡さないという状態です。英語で同じ仕事をするのは a ではなく a certain で、「a certain Mr. Smith」の思わせぶりは「あるスミス氏」の思わせぶりとよく似ています。情報の出し惜しみを、文法のレベルで読者に予告する印なのです。
この印には、ジャンルの記憶も刻まれています。昔話の「あるところに、おじいさんとおばあさんが」は、時間と場所を宙吊りにして「これは特定の現実の話ではない」と告げる開幕の合図です。英語の昔話が Once upon a time と時間をぼかして始まるのに対し、日本語の定型は場所をぼかす。どちらも物語の入り口に不定の印を立てる点では同じです。回想の語りで使う「ある日」も同じ系譜で、日付を覚えていない、あるいは日付などどうでもよいという語り手の時間距離を作ります。反対に、日記体や報告書の文体にこの語は馴染みません。不定の印は、語りの様式そのものを選ぶのです。
実務上の急所は、「ある日」の便利さが因果の放棄と紙一重だという点です。物語の転機が「ある日」偶然やってくる構成は、人物の行動が転機を呼び寄せる構成より、ほとんどの場合弱い。脱稿した原稿でこの言い回しを検索してみて、三箇所以上あるなら、少なくともいくつかは具体的な日付か、先行する出来事との因果に置き換えられるはずです。残してよいのは、偶然性そのものを主題にしている場面だけでしょう。逆に、出し惜しみの気配を積極的に使う道もあります。「ある人物の証言によれば」と書かれた瞬間、読者はその人物の正体を当てにかかる。伏せる予告は、明かす約束と裏表です。ミステリはこの性質を情報管理の道具として使い込んできましたし、逆に「ある調査によると」を濫発する語り手を出せば、出典を明かせない胡散臭さの記号にもなります。
連体詞の仕事は、名詞の前だけにとどまりません。「ある種の緊張」「ある意味で正しい」——対象を特定せずに類や観点だけを示すこれらの言い回しは、ぼかしの談話標識としてほとんど化石化しています。とりわけ「ある意味」は、どの意味かを最後まで言わないまま断定を和らげる口癖として、現代口語に深く定着しました。会話文でこれを多用させれば、明言を避ける人物が一言ごとに立ち上がる。不定の印は、名詞をぼかす道具から、主張そのものをぼかす道具へと守備範囲を広げてきたのです。
表記の選択にも、時代の匂いが乗ります。漢字で「或る」と書けば近代文学の照明が入り、仮名書きなら現代の照明に戻る。実際、平野啓一郎の長編『ある男』(2018 年)は仮名書きの題で、他人の名を生きた男の物語に、百年前と同じ不定の冠を今日の顔で被せてみせました。名を持つはずの人間に不定の印を付けるという振る舞い自体は、『或る女』の時代から現代まで一度も廃れていない。それだけこの一語の距離効果が、物語という形式の急所に触れているのだと思われます。
類語との書き分けにも設計の余地があります。「とある」は口語的で、ウェブ小説やライトノベルの文体によく馴染む。「さる」は雅で婉曲、「さるお方」のように身分ある対象をぼかす含みを持つ。「一人の」は翻訳文体の匂いをまとう。どれも不定を表しますが、時代と文体レジスタがそれぞれ違います。名指さないという選択は、名指すよりも多くの設計を要求する——不定の一語を置くたびに、なぜ伏せるのか、いつ明かすのかという問いに、書き手は答えを持っていなければなりません。
文: hakadoru.ai 編集部
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