ひいては

【ひいては】接続詞

使い分けの視点

「結果として」は直接の帰結、「それが転じて」は性質や用途の変化を示します。「巡り巡って」は多数の中間を経る因果、「ゆくゆくは」「やがては」は将来の展望です。「果ては」は極端な終点、「つまるところ」は要約、「翻って言えば」は視点を反転した解釈になります。

同義語

同品詞の類義語

ゆくゆくは
やがては文芸的
結果として
ひいて言えば文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

それが転じて文芸的
巡り巡って

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

つまるところ
果ては文芸的
翻って言えば文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

中間項を踏むエッセイ関連

例文: 森の保全から港の漁まで中間項を踏む説明を添え、学者は遠い因果を聴衆へ渡した。

因果の飛距離——手が止まる接続語について

他人の原稿を読んでいて、目ではなく手が止まる語があります。次の行へ進めない、というより、いま読んだ二文のあいだに何が渡されたのかを確かめ直したくなる。この接続語はその代表格です——前の文の帰結を、すぐ隣ではなく、かなり遠くまで運ぼうとしている。近い因果なら「だから」で足ります。わざわざ長い語を選ぶということは、書き手は距離を稼ぎにいっている——そこまでは分かるのですが、その先でいつも引っかかります。稼いだ距離のぶん、何が省略されているのか。

省略されているのは中間項です。Aから直接Dへ跳ぶとき、BとCは書かれない。読者はそれを自分で埋めます。埋められれば説得され、埋められなければ「話が飛んだ」と感じる。つまりこの語の成否は、書き手の論理ではなく読者の補完能力に委ねられている。厄介なのは、書き手には中間項が見えているせいで、飛距離を過大評価しがちなことです。原稿を寝かせて読み返すと急に飛躍が目に入るのは、自分が読者側の補完能力に戻っているからでしょう。

ここで自分の観察に異議を唱えておきます。飛距離が長いこと自体は欠点ではない。演説、法廷での弁論、宣言、あるいは組織の長が部下に語る場面では、遠い帰結まで一息で運ぶこと自体が話者の資質の表明になります。中間項をいちいち踏むのは慎重さの表れですが、慎重さは常に美徳ではない。跳ぶ人物と踏む人物を書き分けたいなら、この語は有用な指標になります。台詞の中で使われる限り、飛躍は人物の性格として読まれる。飛躍が乱暴なら、乱暴な人物として立ち上がるだけです。付け加えると、この語を口にする人物はたいてい聴衆を持っています。一対一の会話ではあまり出てこない。相手が一人なら、途中を尋ね返されて中間項を白状させられるからです。聞き手が三人を超えたあたりから質問は返ってこなくなり、飛距離は検証されないまま場を通過していく。

問題は地の文に置いたときです。地の文でこれを使うと、語り手が急に解説者に化けます。物語を見ていた視線が、物語について論じる視線へ切り替わる。三人称の語りで一度この転調が起きると、読者は以後、語り手が結論を持っていることを疑い始めます。誰の推論なのかが曖昧なまま因果だけが伸びる状態は、視点の設計としては事故に近い。もし地の文で使うなら、その推論を視点人物の内語として引き受けさせるか、あるいは語り手が論じる存在であることを冒頭で宣言しておく必要があります。

そう考えると、この語の使いどころは一つに絞れてきます。人物が自分の推論を、はじめて人前に差し出す瞬間。頭の中では何度も辿った道を、他人に向かって圧縮して提示する——その圧縮の跡が語として表面に出る。長編でこの語が二十回出てくるなら、その大半は削っても文意が通ります。残った数回に、その人物が誰かを説得しようとした場面が重なっているかどうか。原稿の検索窓に打ち込んで確かめる価値のある語は、そう多くありません。

文: hakadoru.ai 編集部

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