文章を途中で隠して、次の一語を当てる。遊びのようですが、これは言語研究の基本的な発想のひとつで、ある語の隣にどんな語が来やすいかを大量のテキストで数えた記録を n-gram と呼びます。この観点から眺めると、副詞には二つの型があることが分かります。「とても」のように、ほとんど何でも修飾できて右隣の予測がつかない語。そして「きっぱりと」のように、右隣がかなりの精度で当てられてしまう語です。断る、言う、告げる、別れる、切り捨てる——続く動詞を思い浮かべていくと、発話と切断に関わる語ばかりが並ぶはずです。
この偏りを測る道具として、共起頻度と期待値の比較があります。二つの語が互いに無関係に現れると仮定したときの同時出現の期待値を計算し、実際の観測値がそれをどれだけ上回るかを見る。この比が大きい組み合わせが、いわゆるコロケーション——単なる隣接ではなく、結びつきとして記憶されている語の対です。国立国語研究所が公開している現代日本語書き言葉均衡コーパスのような資料を検索すれば、誰でもこの種の偏りを自分の目で確かめられます。感覚でしかなかった「この副詞は相手を選ぶ」という印象が、数えられる形になるわけです。
見出しの形そのものにも、計量の余地があります。この副詞は「と」を伴う形と伴わない形の両方で使われ、同じ振る舞いをする語は少なくありません。「ゆっくり」「しっかり」「はっきり」も同様です。両形の出現をコーパスで分けて数えれば、どちらが書き言葉に寄り、どちらが話し言葉に寄るかが見えてきます。経験的な印象を言えば、「と」の付いた形のほうが改まった調子を帯び、地の文になじみます。付属語ひとつの有無が文体の位相を動かすという事実は、副詞の選択が語彙の問題であると同時に形態の問題でもあることを示しています。右隣の動詞だけでなく、語そのものの形の揺れも一緒に数えたほうがよい理由が、ここにあります。
なぜこの語はこれほど共起相手を選ぶのか。意味を分解すると見えてきます。この副詞が表しているのは態度の輪郭の明瞭さであり、輪郭が問題になるのは、曖昧なままにもできた場面だけです。断るともなく断る、別れるともなく疎遠になる。日本語はその種の漸進的な撤退の表現が豊かで、だからこそ、一刀で切る動作を明示する副詞が要ります。つまり共起制限は語の欠陥ではなく、意味の裏返しです。何にでも付く副詞は意味が薄く、付く相手の限られる副詞は、その狭さの分だけ意味が濃い。
音形の似た仲間と並べると、分業はさらに細かく見えます。「すっぱり」「ばっさり」「さっぱり」「きっちり」。促音とリで組み立てられたこの一群は、切断や区切りの感触を共有していますが、共起相手までは共有していません。「すっぱりと切る」「ばっさりと落とす」は刃物の動きに寄り、目的語は物です。冒頭の副詞が引き受けるのは、態度と発話のほうです。刃物で切れるものには付きにくく、切れないものにこそよく付く。音の族としてはひとまとまりでも、共起の分布は物と心のあいだで割れています。この割れ目は語感を眺めているだけでは見えず、数えて初めて輪郭を持ちます。意味の直観と頻度の分布とが食い違わずに重なる、見通しのよい標本だと言えます。
書き手にとって、この性質は両刃です。予測可能な組み合わせは読者の処理負荷を下げ、文を速くする一方で、驚きを生みません。「きっぱりと断った」は一瞬で伝わりますが、一瞬で忘れられもします。共起の偏りを知った上での選択肢は二つあります。定番の組み合わせをあえて使い、文の速度を優先する。あるいは、共起確率の低い動詞にこの語を付けて、小さな引っかかりを作る——きっぱりと笑う、きっぱりと歩き出す、きっぱりと箸を置く。統計的に稀な組み合わせは、それだけで人物の輪郭になります。迷いを断つ性格を説明する一段落より、稀な共起の一語のほうが速いことは珍しくありません。
ひとつ注意したいのは、稀な共起を狙う手法には頻度管理が要るということです。珍しさは相対的なもので、一作の中で三度使えばもう定番になってしまう。コーパスに現れる偏りは、何百万人の書き手が積み重ねた選択の堆積であり、そこから外れる一歩は、外れているあいだだけ光ります。数えられるものは、枯れるのも数えられる速さで枯れる。だからこの副詞をどこで使うかは、一作の中の分布まで含めた設計の問題なのです。