傷口、という語がすでに妙です。裂けた皮膚のどこにも、飲み食いするための器官はない。それでも口と呼ぶことに違和感がないのは、開いている部分を身体の開口部として捉える見方が、言葉の底に敷かれているからでしょう。袋の口、火口、鍋の口——容器や地形の開きにも同じ語を当てます。空間の性質を身体の部位に写す、という認知言語学でよく扱われる写像が、日本語ではかなり素朴な形で表に出ている例だと思います。
この副詞は、その写像の上に乗っています。裂け目を、開いた口として描く。しかも副詞の語幹のほうにも、口の運動が入り込んでいる。食べる動作を写す語がほぼ同じ音で存在していて、そちらは開いて閉じる往復です。促音が入り、末尾に「り」が付くことで、往復が止まる。開いたまま静止した状態になる。動作の擬音が、促音と接尾辞を経て状態の描写に変わる——この変換自体は日本語の擬態語に広く見られるもので、目新しくはありませんが、開閉運動が閉じないまま固定される、という一点はこの語に固有の不気味さを与えています。
ここで立ち止まりたいのは、比喩を採用した瞬間に何が起きるかです。裂け目を口と呼ぶと、その部分は器官になります。器官は、機能を持ち、自分で動く。事実として、傷が自ら開くことはない。開かせたのは刃物か、落下か、誰かの手です。それなのにこの語を使った文では、たいてい傷のほうが主語に立って、自分から開いている。負傷した人は、その文の中でいったん脇へ退く。
この副詞が傷だけに使われるわけではない点も、考える材料になります。よく熟れた果実が二つに割れる場面、地面に亀裂が走る場面、縫い目のほどけた鞄。並べてみると、共通しているのは、内側が見えてはいけないものが見えている、という事態です。果肉も、地層も、鞄の中身も、ふだんは外皮に隠れている。この語は開いた形を描くふりをして、実際には隠蔽の失敗を描いている。だとすれば、傷に使われるときにも、書かれているのは深さや長さではなく、身体の内側が露出したという事実のほうなのでしょう。
だから、この副詞で書かれた傷は、痛くありません。書き手が痛みを書き忘れているのではなく、視点が傷の側へ移っているからです。描写の焦点が本人の感覚から離れて、外から見える形状に固定される。自分の観察に反論を試みると、傷の形状を精密に書くほど痛みが伝わる、という書き方もあるはずで、実際そういう文章はあります。ただそこで痛みを運んでいるのは形状ではなく、読者が自分の身体を参照して補う部分でしょう。副詞そのものは、依然として外側にいる。
使いどころは、そこから逆算できます。人物が自分の傷を見下ろしている場面——痛みがまだ来ていない、あるいは痛みから切り離されて他人事のように見えている瞬間には、この語がよく合う。逆に、痛みの内側にいる人物の視点でこれを書くと、その人物が急に自分を外から観察し始めたように読める。裂け目に口を与えるという比喩は、対象を一段だけ生き物に近づけ、当人を一段だけ遠ざける。二つの効果は同時に起き、片方だけを取ることはできません。