全文検索の窓に「降り注ぐ」と打ち込んで、覚えのある一行が出てこないことがあります。原稿の中には確かに書いたはずなのに、結果はゼロ件。理由の多くは、書いた側が「ふりそそぐ」と仮名で打っていた、といった単純なものです。ただしその単純な失敗の裏には、日本語という言語の構造的な事情があります。語と語のあいだに空白がないため、検索システムは文字列をどこで切って索引に登録するかを、自分で決めなければならない。方式は大きく二系統で、形態素解析器で語に切る方式と、二文字ずつ機械的に切って登録する N-gram 方式です。前者は「降り注ぐ」をひとつの語として扱えるかわりに辞書にない語や表記の揺れに弱く、後者は取りこぼしが少ないかわりに「り注」のような無意味な断片まで索引に抱え込みます。
この表現はさらに厄介で、後ろに「ような」が付いています。形態素解析にかければ、降り/注ぐ/よう/な のあたりで分割され、「降り注ぐような」という一続きの単位はどこにも残りません。比喩の多くは語ではなく句であり、句は索引の粒度からこぼれ落ちる。書き手の頭の中では、これは分解できないひとつの部品として存在しています。使うか使わないかを一息で判断できる、完成した道具です。ところが機械の目には四つの破片にしか見えない。語彙の単位と処理の単位がずれているという事実は、類語の一覧を作ろうとした人が最初にぶつかる壁でもあります。
表記の揺れも数えると馬鹿になりません。降り注ぐ、降りそそぐ、ふりそそぐ、降注ぐ。漢字を使うかどうかと送り仮名の付け方の組合せだけで、実用的な変異が数通り生まれます。文字列どうしの近さを測る道具として編集距離——一方をもう一方に変えるのに必要な挿入・削除・置換の最小回数——がありますが、これは「降り注ぐ」と「ふりそそぐ」を遠く見積もる。表記は違うが語としては同一、という関係を、文字面の距離で捉えるのは原理的に難しいわけです。実務では比較の前に正規化をかけます。仮名に開く、送り仮名を統一する、全角と半角を揃える。前処理で揃えてから測る、という順序が効きます。
動詞そのものの性質にも、計算機の側から見て面白い形があります。この語は、発生源がひとつで、受け手が特定されない。降り注ぐ光は誰かに宛てて降るのではなく、そこにいる全員に同じだけ届きます。通信でいえば、宛先を指定して一対一で送るのではなく、同じ経路にいる全員へまとめて配るかたちに近い。だから「彼女に降り注ぐ視線」と書くと、視線の主が誰なのかを特定しないまま、量だけが読者に渡ります。加害の主体を伏せて圧力の総量だけを書ける——この非対称が、比喩としての実際の使いどころです。
もうひとつ、情報量の観点も添えておきます。符号化の理論では、生起しやすい記号ほど短い符号で表せる。裏返せば、予測しやすい表現ほど、実際に運んでいる情報は少ないということになります。手垢のついた比喩が読み飛ばされるのは、読者の側にすでに続きの予測ができているからで、書き手の熱意とは関係がない。この句もその圏内に入りやすい表現です。しかも主体を書かずに量を書ける道具なので、多用すると場面から人が消えていく。光も音も視線も非難も、すべてが誰のものでもないまま降ってくる段落は、密度が高いようでいて、実は誰も何もしていない。ひとつの場面に二度使えば、その兆候はもう出ています。