「彼はドアを押した」という一行を、推敲の途中で消したことがあります。消してから、なぜ消したのかがしばらく分かりませんでした。情報としては何も間違っていない。そのドアは押して開く造りで、彼は確かにそれを押している。誤りがないのに、その一行だけが原稿の中で妙に平たく見えるのです。前後を読み返して、ようやく見当がつきました。彼はその部屋に入りたくなかった。入りたくない人間がドアに手をかけてから実際に力を加えるまでには、数秒の空白がある。その数秒が、押したという報告の中に一切残っていない。消したくなったのは語ではなく、消えてしまった時間のほうだったわけです。
この語の厄介さは、力の記述と意志の記述が同じ形に収まってしまうところにあります。物理の言い方をすれば、接触面に対して垂直な向きに力を加えた、というだけの事象です。ところが実際の用法では、力の大きさも、加えていた時間も、ためらいの有無も、その気になったかどうかさえ、すべて同じ短い一語の中に畳み込まれてしまう。だから書き手は、書いた瞬間に書けたと錯覚します。紙の上に載ったのは動作の始点と終点だけで、その間にあったはずの区間は、語の内側に隠れたまま読者に届かない。街の扉に貼られた札が「押」の一字で用を足せるのは、そこで削られている情報が生活には要らないからです。小説では、たいていそこが要る。
ここで一度立ち止まります。これは語の欠陥ではなく、動詞というものの一般的な性質ではないか。どんな動詞も心情までは運ばない、という反論は正しい。けれど対になる語を並べると、事情が少し違って見えてきます。「引く」では対象が身体の側へ寄り、この語では対象が身体から離れていく。前者で人は重心を後ろへ移し、後者では前へ移します。つまりこの語を選んだ時点で、書き手には体重の移動という描くべき材料が一つ渡されている。渡されているのに使わないから平たくなる。足の位置、肩の傾き、腕が伸びきる瞬間、扉の側から返ってくる抵抗、動き出す前に指先が白くなる短い時間——書ける場所はいくつもあります。
抽象側の用法も同じ骨格を保っています。押し切る、押しが強い、駄目を押す。いずれも自分の領域から相手の領域へ何かを移す形で、身体動作の構図がそのまま残っている。前に付いて他の動詞を強める使い方も同じ系列で、押し黙る、押し寄せる、といった形では、力の向きだけが抽出されて動作そのものは消えています。ただしこちら側は手垢がつきやすく、交渉の場面で「押し切った」と書けば、読者は具体的な攻防を一つも受け取らないまま結果だけを知ることになる。抽象用法は要約の道具であって、場面の道具ではない。要約したい箇所でだけ使うと決めておくと、迷う時間が減ります。
冒頭の一行がどうなったかを書いておきます。書き直した文では、彼はドアに手をあてたまま、しばらく押さなかった。語そのものは残っています。残したうえで、押していない時間のほうを本文にした。動作を表す語は、その動作が起きていない時間を測る物差しとしても働く——そう考えるようになってから、平たい一行を消す回数はむしろ減りました。消す前に、その語で測れるものが場面の中にないかを先に探すようになったからです。