「陶器めいた」と「陶器じみた」を並べると、構造はほとんど同じなのに、後者は褒め言葉になりません。じみたが付く語を集めてみると、子供じみた、芝居じみた、所帯じみたと、望ましくない類似に偏っている。めいたのほうは、謎めいた、春めいた、のように中立から好意的な側へも伸びます。三つ目の形式である「のような」だけが、評価の傾きを持ちません。だから比喩の基本形として使われるのであって、無色であることがこの形式の機能です。
無色さの出どころは、内部構造にあります。この形式は接尾辞ではなく、格助詞の「の」に、様態や比況を表す助動詞「ようだ」が続いたものです。助動詞であるぶん活用を持ち、連体形の「ような」、連用形の「ように」、中止の「ようで」と姿を変える。接尾辞は語彙として固定した含みを蓄えますが、助動詞は文法要素として働くため、含みを蓄えにくい。同じ「らしい」でも、推定の助動詞と、典型性を言う接尾辞(男らしい、学生らしい)とで振る舞いが分かれるのと事情は似ています。
連体形と連用形の非対称は、書く側にとってさらに実用的です。連用形は述語を要求します。陶器のように白い、陶器のように滑らか、と書けば、比較の次元は明示される。どこが似ているかを言い切らなければ文が終わらない。ところが連体形は、名詞に直接掛かって次元を空欄のまま残します。空欄は読者が埋めることになり、埋め方は一つに定まりません。この非対称は活用形の性質から出ているだけで、意味の差として辞書に立つものではないのですが、文章の効果としてははっきり分かれる。
否定との組み合わせを見ると、この形式が助動詞であることがもう少しはっきりします。接尾辞のほうは、子供じみていない、のように語全体をまとめて否定するしかありませんが、助動詞を使った形は否定の掛かる範囲が揺れる。似ていないと言っているのか、似てはいるが別の点で違うと言っているのか、文脈なしには決まりません。範囲の揺れは曖昧さでもありますが、書き手にとっては操作できる幅でもある。接尾辞で書けば含みが固定し、助動詞で書けば含みが動く。この差は、同じ比喩を何度か繰り返す長い文章ほど効いてきます。
空欄を埋める手がかりは、修飾される名詞の側が供給します。頬や肌や指先に掛ければ、なめらかさと硬さと白さのあたりが選ばれる。声に掛ければ、澄んでいることと脆さの側が前へ出る。性格に掛ければ、選ばれるのはもっぱら硬さと冷たさで、褒めているようには読まれません。つまり修飾先の名詞が次元選択の主導権を握っていて、比喩の中身は形式ではなく共起によって決まっている。同じ形式のまま印象を変えたければ、掛ける先を替えるのが最も確実です。
共起の制限は、素材そのものの属性からも来ます。焼き物は、硬さと脆さを同時に持つ素材です。叩けば澄んだ音がして、力を加えれば一気に割れる——硬さと脆さが同じ性質の裏表になっている。この二面性が語に貼り付いているため、掛けた先の名詞が生きた身体であるとき、比喩は静けさと同時にわずかな不安を運びます。金属を持ち出したときには出てこない成分で、素材を替えれば消える。形式が同じでも、比較対象の物性が意味の一部を決めているということです。
したがって選択は二段構えになります。まず、次元を書き手が指定するのか読者に任せるのかで、連用と連体を選ぶ。次に、任せる側を選んだなら、どの名詞に掛けるかで任せ方の幅を絞る。連用で開いた瞬間に、何が似ているのかを自分で言い切る責任が発生する——この責任を引き受けるかどうかが、比喩の精度を分けます。空欄のまま置いた比喩が曖昧に見えるとき、たいてい問題は形式ではなく、掛けた名詞が広すぎることのほうにあります。