硝子のようだ、と書くのと、水晶のようだ、と書くのとでは、読者が受け取る情報が変わります。どちらも透明で、硬く、冷たい。それでも入れ替えると場面の質が動く。差を作っているのは透明度ではなく、その素材に付随する別の属性——人工か天然か、均質か結晶か、割れるときに破片になるか稜に沿って分かれるか——のほうです。直喩とは、素材が持つ属性の束からいくつかだけを選んで渡す装置だと考えると、見通しがよくなります。素材そのものを渡しているわけではない。
問題は、どれを選ぶかを書き手が指定できない点にあります。この直喩を瞳に掛ければ、多くの読者は透明さと純度を取り出す。声に掛ければ、澄んでいることに加えて硬さが混じる。理屈に掛けるところまで来ると、透明さは論理の見通しのよさに、硬さは融通の利かなさへ変わってしまう。同じ素材が、片方では褒め言葉になり、片方では批判になる。選択を行っているのは書き手ではなく、被修飾語との組み合わせのほうです。意味論ではこうした状態を、曖昧というより未指定として扱います。決まっていないのではなく、決めるのは文脈だという扱いです。
受け取る側に目を移すと、単純な制限が働いているのが分かります。被修飾語が持ちうる属性しか、束の中から渡らない。瞳は硬さを引き受けられないので、硬さはそこで落ちる。声は比喩的に硬くなれるので、硬さが残って澄んだ響きに重なる。理屈はさらに欲張りで、透明であることと硬いことの両方を引き受けられてしまう。だから理屈に掛けたときだけ属性が二つ同時に渡り、褒めと批判の混ざった読みになるわけです。渡る属性の数は、素材の側の豊かさではなく、受け手の側の容量で決まっている。直喩を長くしても短くしても、この容量は動きません。名詞の側が受け取れる属性の目録は、意味論では選択制限と呼ばれてきました。制限に触れた属性は、無理に押し込まれるのではなく、読者に気づかれないまま静かに落ちます。落ちたぶんだけ、直喩は短く効く。素材を吟味する前に、被修飾語が何を受け取れるのかを見ておくほうが早い場合があります。
選択の幅は、その語がカテゴリのどの階層にあるかにも左右されます。鉱物、石英、水晶と並べたとき、直喩にいちばん使いやすいのは上でも下でもなく真ん中です。心理学の側からは、こうした中間の高さにある語が最も速く思い浮かび、姿を想像しやすく、子どもが先に覚えることが指摘されてきました。上位語の鉱物は像を結ばず、下位に降りて産地や結晶系まで特定すると、今度は像が細かすぎて場面から浮く。直喩に使える語の帯は、思うより狭い。専門的な語を選べば精度が上がるという直感は、比喩に関してはあまり当てになりません。
もうひとつ、この装置は逆向きに動きません。人物の瞳をこの石に喩えることはできても、店先の石をその人物の瞳に喩えると、まるで別のことを述べた文になります。前者は透明さと純度を人へ渡し、後者は、その石が誰かの記憶に属していることのほうを述べてしまう。比喩は等号ではなく、属性がどちらへ流れるかという向きを持っている。向きを決めているのは、二つのうちどちらがよく知られているかです。鉱物の見た目は誰でも知っていて、目の前の人物の内側は知られていない。既知の側から未知の側へ、属性は流れます。産地まで特定した石が場面から浮くのは、既知だったはずの側が既知でなくなり、流れる向きが定まらなくなるからでもあります。
同じ物質を指す語が複数あることも効いてきます。玻璃、クリスタル、石英——指示対象は重なるのに、文体上の位置がまるで違う。玻璃は古典寄りの響きを持ち込み、クリスタルは工業製品や食器の連想を連れてくる。石英まで来ると、記述は正確になる代わりに理科室の空気が付いてきます。指しているものが同じでも、語が背負ってきた文脈まで一緒に渡ってしまうわけです。透明さだけを取り出したかったのに、食器棚が付いてくることがある。
だから点検の手順は、書き手側ではなく読者側から始めるのが確実です。自分の書いた直喩を、被修飾語を隠した状態で読み返してみる。前半だけを見て真っ先に浮かぶ属性はどれか。それが渡したかった属性と一致していれば、その直喩は仕事をしている。ずれていれば、素材を替えるか、直後の一文で属性を絞り込むかのどちらかになります。絞り込みは一語で足りることが多い。冷たさを効かせたいなら温度に触れる語を、硬さを効かせたいなら壊れ方に触れる語を、近くに置けばよい。読者は書き手の意図よりも、語の属性の束を読んでいます。