そう言われて、素直に喜べるでしょうか。褒めるつもりで発された比喩が、受け取る側で目減りしてしまう場面というのがあります。言った本人は輪郭の美しさを指したつもりで、言われた側は一瞬遅れて笑う。あるいは「それは褒めているのか」と聞き返す。この半拍の遅れがどこから来るのかを考えていくと、比喩という装置の作りそのものに行き当たります。これは語の意味というより、受け取り方の手続きに属する問題です。
字義だけを取れば、比喩はほとんど何も言っていません。あらゆるものは何かに似ている。だから聞き手は、話し手が関連のある性質を意図したはずだと仮定して、候補の中から適切なものを選び出す作業をします。彫られた像が持つ性質を並べてみると、輪郭が明確であること、造形が整っていること、硬いこと、冷たいこと、動かないこと、誰かの手で作られたものであること、見られるために置かれていること——数えていくとずいぶんな量になります。話し手はこのうち二つか三つを想定し、聞き手も同じものを選んでくれると期待している。その期待は、多くの場合うまくいきます。
問題は、選ばれなかった性質が完全には消えないことです。冷たさと不動性は、招かれていないのについてくる。ここで反論を自分で出しておくと、文脈が抑制するはずだ、という説明は十分に成り立ちます。称賛の場に置かれれば、否定的な含みは前景に出てこない。実際、それで問題が起きないことのほうが多い。ただ、消えるのではなく背後に退くだけです。半拍の遅れが生じるのは、退いたぶんを聞き手が処理しているからだと考えると、あの間の説明がつきます。うまい比喩とは、余った性質が少ない比喩のことなのかもしれません。
比喩には向きもあります。人を像に喩えるのと、像を人に喩えるのとでは、共有される性質が同じでも、受け取りは対称になりません。像が人のようだと言えば、動かないはずのものに命の気配を認めたことになり、褒め言葉として素直に通る。向きを裏返すと、生きているものから動きを差し引く操作になります。引き算のほうが目立つのは、聞き手が候補を選ぶとき、喩えられる側にもともと備わっているものを基準にして読むからでしょう。彫刻の比喩には美しい輪郭だけでなく冷たさや不動性も残りますが、像に向ければ余りとして無視され、人に向ければ差し引きとして働く。同じ性質の一覧が、向きひとつで加算にも減算にもなります。
もうひとつ、比喩は対象について語ると同時に、話し手についても語ります。ある人物を彫られた像に喩えるという行為は、その人物を「置かれた物」の側に分類する操作です。見る側と見られる側が固定され、見られる側からの応答は想定されていない。だから同じ台詞でも、口に出して言うのと、地の文で思うのとでは重さが違う。視点人物の心内でこの比喩が出てきたとき、読者が受け取るのは相手の容貌の情報だけではありません。この語り手は相手をまだ人として扱っていない、という情報も同時に届きます。比喩は話者の立ち位置を漏らす。
聞き手の手持ちにも幅があります。頭に浮かぶ像が、白い大理石なのか、堂の奥の木彫なのか、駅前の錆びた鉄なのかで、候補に上がる性質の一覧が入れ替わる。硬さはどれにも共通していますが、冷たさは大理石で強く、木彫では薄い。書き手が輪郭のことだけを言いたいのに、読者の手持ちが冷たさの強い像だった場合、目減りは避けられません。限定を一語足せば範囲は狭まります。ただし、狭めれば狭めるほど比喩は説明に近づき、比喩を使う理由のほうが薄くなる。精度と経済のどちらを取るかを、その都度決めることになります。手持ちの差は、時代や世代でも動きます。石の像を先に思い浮かべる読者と、樹脂で成形された等身大の像を思い浮かべる読者とでは——冷たさの重みが同じであるはずがない。比喩の効き方は、書かれた側ではなく読む側の在庫で決まる部分が、思っているより大きいのです。
だから使いどころは、美しさを説明したい瞬間ではないほうがよさそうです。距離を作りたい瞬間、あるいは相手を対象として眺めている自分に語り手がまだ気づいていない瞬間。そしてもう一つ有効なのは、像が動く直前です。動かないものに喩えておいてから動かせば、動きのほうに全部の重みが乗る。像が動く直前に置けば、笑うという小さな動作ひとつが、場面の中でいちばん大きい出来事になります。喩えの中で眠っていた不動性が、そこではじめて仕事をする。含みが漏れるのは事故ではなく、置き場所さえ選べば材料になる。