診察室で痛みの強さを尋ねられ、〇から十のあいだで答えるように求められることがあります。この数字は順序尺度と呼ばれるもので、大小の比較には使えますが、三と四の差が七と八の差に等しい保証はなく、六は三の二倍だとも言えない。目盛りの間隔に意味がないのに、順序だけは信頼できる。日常語が程度を扱うときの構えは、この尺度によく似ています。強い弱いは言えるけれど、どれだけ強いかは言えない。
日本語の「ほど」は、まさにその不足を補うために出来事を借りてきます。目盛りが引けないなら、目盛りの代わりに、ある事象が起きる点を打てばよい。陶酔という状態が生じる地点を程度の軸の上に一つ打ち、対象の強さがそこに届いていると述べる。数学の言葉を使えば、これは閾値による指定です。値そのものを言わずに、値がどの境界を越えたかで位置を伝える。泣くほど笑う、息が止まるほど驚く、といった言い方はすべて同じ仕組みで、境界の置き方だけが違う。
この仕組みには前提があります。程度が増すほどその事象が起きやすくなる、という単調な対応です。単調でなければ、境界を打っても位置の情報になりません。まばたきするほどの美しさ、という言い方が落ち着かないのは、まばたきの起こりやすさが美しさと単調に対応しないからで、境界としての役に立たない。逆に、めったに起きない事象ほど高い位置に打たれた境界として働く。閾値語の強さは、その事象の希少さにほぼ比例します。
希少さが強さを決める、という点はもう少し詰めておく価値があります。境界として使える事象には、実は範囲の制約がある。あまりに日常的な事象を持ち出すと軸の低い位置にしか打てず、逆に、およそ起こり得ない事象を持ち出すと、読者は境界の位置を推定できなくなります。位置が推定できない境界は、値の情報を運びません。誇張表現がしばしば空回りするのは、この理由によると考えられます。境界は、読者の経験の中に位置が定まっている事象でなければならない。酔いや放心といった状態が閾値語として長く使われてきたのは、それが十分に珍しく、しかも誰の経験の中にも位置を持っているからでしょう。
もう一つ、方向の問題があります。この形式が与えるのは下からの押さえ、つまり下界です。境界に届いていると述べているだけで、そこが上限だとは言っていない。だからこの語のあとに、さらに強い表現を重ねることが文法的に可能です。一方で「これ以上ない」という言い方は上界の主張であり、後続を許しません。書き手はどちらの形式を選んだ時点で、その先へ進む余地を残すか閉じるかを自分で決めている。閉じてしまってから続きを書こうとすると、文が渋滞する。
閾値による指定には、もう一つ副産物があります。境界を打った時点で、その手前と向こうという二つの区間が生まれる。区間が生まれれば、まだ手前にいるという書き方も、越えてしまったという書き方も可能になります。程度そのものより、越境の有無のほうが物語では扱いやすい。数値では表せない変化を、境界の通過として一度だけ書く——この単純化が、閾値語がこれほど使われてきた理由の一つだと考えられます。
実務上の帰結は素朴です。閾値表現をいくつ並べても、強度は積み上がりません。境界を三つ打っても軸そのものは伸びず、読者の側では最も高い一つだけが残って、残りは重複として処理される。順序尺度に足し算がないことと、これは同じ事情です。したがって一つの場面に置く閾値表現は一つに絞り、二つ目を置きたくなったときは、境界を打ち直すのではなく軸を替える——強さの軸から持続の軸へ、あるいは範囲の軸へ移る。軸が替われば、情報は重ならずに増えます。