一泊二万円の宿は、ある人物にとっては分不相応で、別の人物にとっては平常です。同じ金額が別の評価を受けるのだから、この語が測っているのは絶対量ではなく、どこかの基準からの隔たりだということになります。ただし隔たり、つまり距離として扱うには具合の悪いところがある。距離は対称で、AからBもBからAも等しい。ところが基準を下回ることは決して贅沢と呼ばれません。方向を持っている以上、これは距離ではなく順序の話です。
では順序かというと、そこも怪しい。金を惜しまないことと、時間を惜しまないことは、同じ物差しに乗りません。二十時間かけて手作りされた料理と、二十万円の食材を使った料理のどちらが贅沢か——問い自体が答えを持たない。次元が複数あるとき、すべての要素が一列に並ぶ全順序は壊れ、比べられる組と比べられない組が混在する半順序になります。ある選択が別の選択より全次元で上回っていれば比較できますが、現実の贅沢はたいてい、比較不能な領域に散らばっています。だから贅沢の度合いを争う会話は、しばしば噛み合わないまま終わる。
別の定式化も試せます。贅沢とは選べる幅の広さだ、と考える道です。選択肢が二つしかない状態と、二十ある状態では、後者のほうが豊かに見える。組合せの数として測るこの見方は直感に合いますが、すぐに破れます。選択肢が増えすぎた状態を人は贅沢とは呼ばず、しばしば負担と呼ぶ。数え上げの大きさと、評価の高さは、単調に対応していません。
経済学の道具を借りると、見通しがよくなる部分もあります。効用が財の量に対して凹関数だという仮定、つまり持っている量が増えるほど追加の一単位から得られるものが小さくなるという性質です。この仮定に従えば、贅沢とは曲線の平らになった部分に足を踏み入れることだと言い換えられる。支払った額に対して、得られる満足の伸びがほとんどない領域。合理的でないという意味ではなく、伸びの小ささを承知で払っている状態です。
しかしここで、自分の整理が破れます。時間の贅沢は逓減しない。忙しい人ほど一時間の価値は高く、余裕がない者にとっての一時間はむしろ増えていく。凹関数の話は、財が積み上がるものであることに寄りかかっていて、減り続けるものには当てはまらない。それでも残るものがあります。どの場合も、限界的な追加が実用のためには払われていない、という一点です。腹を満たすためでも移動するためでもない支出。用途から切り離された最後の一単位に、この語は貼りついている。
創作の実務として引き出せるのは、金額を書いても贅沢は伝わらない、ということです。読者の内側に基準点が立っていなければ、そこからの隔たりは測れません。二万円の宿を贅沢として読ませたければ、その前の場面で人物が何にいくら払ったかを見せておく必要がある。基準は説明ではなく、直前の生活の描写で作られます。順序は、原点を置いて初めて意味を持つ。